ダンスを「観る」ということ | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

芝居や映画ならそういうことは考えないんだけど、ダンスのときだけ、モヤモヤすることがある。

ダンスを「観る」ってどういうことなんだろう。

チケット代の問題で、ちゃんとしたバレエ公演はまだ見たことがないんだけど、でも、バレエなら「観て」てもたぶん悩まない。
テレビで社交ダンスをやってるのも、悩まずに観ることができる。
ブレイクダンスやヒップホップも、すごい技が繰り出されるようなハイレベルのダンスなら、わくわくしながら見ていられる。

そういうとき、たぶん私は「ワザ」を見てる。
あるいは、ダンサーの技量を見てる。
その舞台に至るまでの努力とか練習とか、そういうものを背負って、高度なパフォーマンスを見せてくれてるから、私はその技術(見せ方も含めて)をみて感動する。
すごいなー、きれいだなー、素晴らしいなー、と「観る幸せ」を噛み締めながら観てる。


その一方で、技術は全然ないけど感動して見ることができるダンスもある。
身内や友人、知人など、背景に「人間関係」がある人が踊っているもの。
幼稚園の発表会、学校の発表会、習い事の発表会なんかがそうだ。
そういうときは、上手い下手じゃなく、「その人」が踊っていることそのものに意味が生まれる。
がんばってるなー、よくやったなー、成長したなー、という感動。
だから、ダンスの技術は全然気にしないで、時には目をうるませながら見ている。


その、どちらでもないときが、いちばん困る。
ちょっとだけ知ってる人が出てるダンスの舞台は、出演者との間になんの物語も存在していないので、つい、技量のほうに目が行ってしまう。
すると、どうしてもアラが目についてしまうのだ。
プロじゃないし、練習も行き届かないし、なにより心持ちが違うので、ダンスのレベルは決して高くない。
具体的にいうと、指先まで神経が行ってない(だから手の形が決まらない)とか、目線が落ちてるとか、体幹が安定してないとか。そういうことで、出来上がった踊りがなんとなくしまらないものになってしまうのだ。

「がんばったねー」と喜べる物語もなく、「すごいなー」と感動できる技術もない。
そういうとき、いったいどういう心構えで見ていたらいいのかわからなくなってしまう。

やってる方は楽しくて充実感に満ちてるんだと思う。
わたしもそうだった。
だいたい、「踊る」っていうことは楽しいことなのだ。
音楽に合わせてリズムをきざみ、体を動かす。覚えた振り付けを順番にこなすだけだって嬉しくなってくるものだ。
だから、誰だろうと、踊ることに異存はない。
ただ、それを他人に見せる、となると、話が違ってくると思うのだ。
悪いわけじゃないけど、観てるのは正直しんどい。

今日の夕方、いくつかそういうダンスを観た。
そうじゃない、「すごい」ダンスもあったから、プラマイ0くらいの感じではあるんだけど。
ちょっと考えてしまった。

「ダンス」ってなんなんだろうって。

むかーし、まだディスコなんてものがあった時代、私は踊るのが大好きだった。音楽に合わせて即興で振りをつけて、何時間でも踊っていたものだ。あのころチークタイムは休憩時間だった。
でも、その踊りは別に人に見せるためのものじゃなかった。ただ自分が楽しくて踊っていただけだ。
後年、ミュージカルに出たときは、楽しいだけじゃなかった。基本ができてなかったから、表現できないことも多かったし、気持ちだけはあっても、完成度は低かった。
でも、目指す所を知ることができたのはよかったと思ってる。

自分が踊って楽しいのと、それを人に見せることの間には、大きな壁がある。
壁の存在を知ってしまったのはよかったのか悪かったのか。

うんとわがままな観客としての感想をいうなら、「中途半端なものは退屈」。
せめて、「お、すごい。あんなふうに踊れたら素敵だな。とてもきれいだな」と思わせてほしい。それが観客としての要望。


ブーメランだよなとは思う。
偉そうにいうけど、自分はどうなんだ、って思うから。
ま、そこはうんとがんばりますってことで(笑)。

もうダンスは無理だけど、芝居があるからなー。

夜に、別のところでクラウンの人たちの公演を観た。
パントマイムだけじゃなくて、セリフもありの、短いお芝居仕立てのものが何本か上演されたんだけど。
こっちは安心して観ていられた。面白かったし、参考にもなった。
観客を楽しませるということを、きちんと考えてる。

あー、いや、ダンスの方が考えてないってわけじゃないとは思うんだけど。
なんせ、出演者が、自分の分担をこなすので精いっぱいって感じだったんで。

「観客のことを考える」とはどういうことか、ってことも考えさせられた。
慣れないとどうしても、自分のことばっかり考えちゃうんだよね。
自分がうまくやれるかどうかとか、間違えたりしないだろうかとか。
読み聞かせだってそうなのだ。
初めて子どもの前で本を読む時って、たいていみんな「ちゃんと読めるかしら」という心配をする。「私」が失敗しないか、恥をかかないか、そんなことばっかり考える。
だから、そそくさと読んでしまったり、小声で読み流してしまったりする。
「あがる」っていうのは、つまりは「自分がうまくやりたい」と思うからなんだな。
少なくとも私はそうだった。最初の頃は、子どもたちの顔も見えず、雰囲気も感じられなかった。いかにすらすら本を読むか、そんなことばっかり考えてた。
最近は多少マシになってきたと思うが、まだまだ全然できてない。

「一般市民」「普通の人」が人前で何かやる、となると、まず最初はそこでつっかかる。
そういうのは、案外表に出てしまうものなのだ。
体が萎縮してたり、目線が泳いでいたり、表情が固かったりする。
そして、動きが「段取り」になり、「とにかく覚えたことを順番に排出しよう」という気持ちになる。

そこに感動はないんだよなあ。


とてもむずかしいことだし、要求すること自体に無理があるのかもしれない。
でも、「人前でなにかする」ことを選んだのなら、やっぱり上を目指していきたいじゃないか。

そんな決意を新たにした夜なのであった。