流れていく時の中で | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

髪を切った。
ここしばらくの、湿気の多い天候のせいか、それとも髪質に合わないトリートメントのせいか、やけにバサバサと広がっていた髪。
美容師の友だちにあれこれ注文をつけて、わりと思いどおりの感じで切ってもらえた。

髪、というか、ヘアスタイルには昔から悩まされていた。
固くて太い癖のある髪なので、長くなるとぶわっと広がる。
うっかり短くすると、ヘルメットをかぶっているような感じになる。
長くても短くても始末におえない、気に入らない髪の毛であった。

昔のヘアスタイルに固執するのはダサいことらしいが、いろいろ試した結果なんとかこれならという髪型(カットの仕方)を見つけたのが若いころで、それ以来ずっとそのカットにこだわっている。
たぶん誰にもわからないだろうし、言ったら笑われるだろうが、モデルは、「ガラスの林檎」を歌っていたころの松田聖子さんである。レコードジャケットの写真に使われていた髪型だ。
それとパイナップルヘアの混合系。

トップを短くして、その長さに合わせてレイヤーを入れる。ただそれだけのことなのに、なかなか美容師さんに伝わらない。
「そんなふうに切ったら髪が立ってしまう」とか「よけい広がってしまう」と言われて、私がイメージしているよりも長く切られてしまう。時には、レイヤーじゃなくて、ザクザクとすきバサミですいてしまわれたりする。

基本的に美容院が苦手なので、なるべく行かなくて済むようにしたいと思ってる。
だから、うんと長く伸ばすか、短く切って伸びるまで放置するか、そのどちらかになる。
若い時は長くしていたんだけど、子どもを産んでからは長い髪を持て余すようになったんで、ずっとショートにしてる。
たまにしか行かないから、美容師さんと仲良くなることもなくて、だからうまくこっちの気持ちが伝わらないんだろうなと思っている。向こうだって、馴染みのない髪じゃ、どう扱ったらいいのかわからないもんね。
若い時は、美容師さんはプロだから、ぱっと見るだけで最適の髪型がわかるんじゃないかと思ってた。こっちがちょっと希望を言うだけでわかっちゃう、みたいな。
でも、そんなことはないんだよね。
今日、友だちの美容師に、ほんとあれこれ細かい注文をつけたんだけど、「むしろそのほうがありがたいよ」と言われた。まあそうだよねえ。
でも、それは、彼女が友だちだから、なのだ。安心していろいろ話せるという前提があるから、ああして、こうして、と頼むことができたのだ。


短くしたら白髪が目立った。
ここ数年でどっと白髪が増えた。歳だし、そういう髪質だから仕方ないのだが、もうちょっと染め続けようかと思ってる。
日本人の白髪というのは、若干黄ばんでいるそうだ。だから、そのまま放置するとなんとなくみすぼらしい感じになってしまう。特に、入り混じっている状態の時がつらい。
自分がそのイメージを受け入れられるようになるには、まだ時間がかかりそうだなと思う。
だから、染める。
学生の時は「髪を染めるのは不良だ」とされていたけど、年をとったら、身繕いの一環で染めることになるんだなあ。


昨日今日で、荻原浩さんの新刊「二千七百の夏と冬」を読んだ。
なんと、縄文人と弥生人の恋の話だ。
縄文時代? 弥生時代? なんてはるか昔の話なんだろう、原始時代の恋物語ってどうなん?と思いながら読み始めたのだが、一気に引きこまれてしまった。
人種の違い、生活様式の違いが極端に出るのが古代だから、そのギャップが想像以上に面白くて、いろいろ考えてしまった。
人は、幸せになってきてるのかな。なってきてる、とは思うけど。
独占欲とか猜疑心、欲望や権力欲は、生活様式から生まれるところもあるのかもしれないとも思った。
三千年の昔から今までずっと時が流れて、その流れの片隅に自分がいる。なんだかとても不思議な気持ちになる。悩んだり苦しんだり、疲れたり笑ったり怒ったり、そんな些細な出来事を積み重ねて、今日も時が流れていく。