いまさらながらにコミュニケーションの難しさを知る | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

つくづく私は世間知らずなんだなあと痛感するこのごろですが。

頭のなかだけでわかったつもりになってたことがたくさんあることに気づく今日このごろ。
そのうちの一つが「飲みニケーション」ってやつです。
私はこれに関して大きな誤解をしていたのかもしれないと思うのです。

よくネットのニュースなんかでもネタになってますよね。会社の中間管理職のおじさんが若い社員とのコミュニケーションを取るのに飲みに誘うんだけど、若い世代はそれを嫌がるんだ、みたいな話。
あれを、私は「そんなの当たり前じゃん。おじさんと酒のんで何が楽しいのさ」くらいにしか受け止めていませんでした。
なぜおじさんたちが、アルコールを介在させて若者と関わろうと目論むのか。
そこにあるのは、単にアルコールを摂取したい欲望だけなんじゃなかったのか。
もちろん「酒のんで酔っ払いたいぜ」という願望があることは確かなんでしょうが、どうもそれだけではなさそうだぞ、と最近ようやく思い始めたのです。

もっとも私はアルコール分解酵素を持たないタイプの人間ですので、アルコールで理性をゆるめて感情解放するという手段は取れません。その前に気持ち悪くなってしまうので、人と関わるどころの話じゃなくなってしまうんです。
それに、酒に酔ってした話なんて、シラフに戻ったらみんなたいがい「なかったこと」にしてしまうじゃないですか。何度も耳にしましたよ「あのときは酔ってたから。何を言ったか覚えてない」という言い訳は。
ほんとに覚えてないこともあるでしょうし、そう言っとけばなんとかなるという世渡り方法なのかもしれませんが、過去の経験から、私はアルコール摂取時の言動は一切信用しないことにしています。酔ったときに何を言おうが何をしようが、それはおそらく本心ではないのです。いや、別の意味での本心かもしれませんけど。

しかし、通常はシラフの状態で付き合うわけですから、酩酊時の言動を元にするわけにはいきません。一回飲んだからって次から親しくなれるかといえば、そうとも限らないんですね。

酔わないと話ができない、というシャイな人は、シラフに戻れば相変わらずシャイでぶっきらぼうだったりする。それじゃあ、元の木阿弥じゃないですか。

ですから、基本的に私は「飲みニケーション」は信用してないんですけど、というか、認めてこなかったんですけど、最近、もしかしたらそれにも意味があるのかもしれないな、と思うようになってきました。
とっかかり、というか、きっかけの一つにはなるかもしれない、と思ったのです。
理性をなくしたみっともない姿をお互い一度くらいは見せ合っておけば、弱みを握り合ったことになりますもんね(笑) なるのかな?
ここでも、私が飲めないってことがネックになるんですよねえ。飲み会では私は常にシラフですから。シラフでも十分テンション上げて盛り上がっていけるんですが、なにしろ理性は麻痺してないので、そのあたりが酔っ払ってる人に嫌がられてしまう可能性は大きい。

アルコールに頼らずにコミュニケーションを取る方法って何があるんでしょうね。
女性同士なら、とにかくおしゃべり、という手もありますけどね。
はっきりしたテーマや目標がなくても、なんとなくしゃべり続けていられるのは女性の特性じゃないでしょうか。
もちろん、そういうのが苦手という女性もいます。でも、そういう人でも「相手と仲良くなる」という目的があれば少しは違うんじゃないかなと思うんですよ。

結局、コミュニケーションっていうのは、「相手を知りたい。親密になりたい」という欲求があって初めて成立するもので、そういう欲求がなければ、飲み会に意義は見いだせないし、なんで人と余計なことしゃべらなきゃならないの、って思ってしまうんじゃないでしょうか。

学校や仕事の場ではなく、自分の意志で参加している団体の中で、どれくらいコミュニケーションを取りたいと思っているかというのは、実は人それぞれなんですよね。
せっかく一緒にやるからには仲良くなりたいよねと思う人もいれば、別にここで友だち作るつもりはないから、と距離を置きたい人もいるでしょう。それでも、必要最低限のことはするんだから、それでいいじゃないか、と思うなら、あえてコミュニケーションを密にする必要性も感じないですよね。

そのあたりがどうなんだろうなあ、と今さらのように、人と人とのつながり方について思いを巡らせているわけです。
私は会社勤めの経験がないので、社員旅行ですとか社内運動会のような親睦会に出たことがありません。職場での人間関係について頭を悩ませたこともないし、飲み会は自分が行きたくなかったらあっさり拒否できるようなものばかりでした。
孤立して生きてきたわけじゃないですけど、広く浅く人と付き合う必要のない人生を送ってきたせいで、一歩踏み込んだコミュニケーションの取り方がわからないのだ、ということに気がつきました。
学生時代にも「友だちを作ろう」と意図的に行動したことがなく、長い時間をかけて「気づいたら友だちになってた」という関係性しか経験したことがないので、ある意味強制的に親睦を図る必要のある場、というものがよくわからないのです。

そもそも、踏み込んで仲良くなる必要があるのか。みんなはそれを望んでいるのか?
親睦会をやりましょうと企画して声をかけたとしても、その必要性が共有できてなかったら意味ないよな、とも思うんです。
さて、どうなんだろうなあ。仲良くなりたいと思っているのかしら。
私は、できたら仲良くなりたいとは思ってるんですけどね。