感謝の心 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

「人から何かしてもらったら感謝するものだ」というのは、道徳的なしつけの一つだと思われています。
まだろくに言葉も喋れないような小さいときから、母親が執拗に「ありがとうは? ありがとうは?」とせっつく。
幼児がわけもわからないまま(芸をする動物のように)、小さな頭をかしげて「あーんと」とでも言おうものなら、周囲の大人は顔が夏の日のソフトクリームのようにデロデロに溶けます。

そうやって条件付けして、「人から何かしてもらったり、物をもらったら、ありがとうというのだ」ということを仕込んでいくのが「しつけ」というやつです。
だから、芸が覚えられない子は「可愛げがない」とか「親のしつけが悪い」というふうに非難されてしまいがちなんですね。

「お礼を言う」「感謝する」ということを教えることに反対してるわけじゃないんですが、これ、「感謝されるようなことをする側」から見たらどうなのかなー、と思うことがあります。

他人に何かしてあげたとき、たとえば親切とか、好意とか、そういった類のことをしたとき。あるいは、何か物をプレゼントしたとき。
相手の「感謝」を期待するのはちと浅ましい所業じゃないですかね。

世の中には、自分の行為に対して、相手が自分の望むようなリアクションをしない、自分が想定していたような感謝をしない、というときに、相手を「非常識だ」と非難するタイプの人がいます。
「せっかく◯◯してあげたのに」とか、「わざわざ◯◯をあげたのに」、それに対して目に見える形で感謝の意を表わさないのは、相手が悪い、というわけです。
好意を断っただけでも激怒する人もいますね。

ちょっと話はずれますが、酒の席で「俺の酒が飲めないのか」って文句付ける人、よくいますけど、ほんとうんざりします。いらんって言ってんのに、なぜ強要してくるかなあ。
あれもまた、「酒を飲めと勧めるのがあらまほしき姿、望まれる態度」だと勝手に思い込んでいるからでしょう。

外国はどうなのか知りませんが(たぶん日本とはだいぶ違うような気がする)、日本では「儀礼的な贈り物」が大きな地位を占めています。
お中元、お歳暮、あるいは、結婚祝い、出産祝い、新築祝い、入学祝い、卒業祝い、就職祝い、エトセトラエトセトラ………。
ことあるごとに、贈り物をする習慣があります。いや、その事自体は別に悪い事じゃないと思うんですけど、問題はこれが儀式化してしまっている場合。
特に贈りたくもない、もらいたくもないのに、「贈らないのは失礼」「もらわないのは失礼」という思いに縛られて、虚礼が行ったり来たりするわけですよ。

ほんとに親しい人が、贈る相手のことを真剣に考えて選んだ贈り物なら、頼まなくても感謝されるでしょう。もらった人がそうせずにはいられない気持ちになるからです。
でも、相手のことはほんの表面的にしか考えず、世間体や自分のプライドを重視して一方的に相手に送りつけたとしたら。
それで感謝しない、と文句を言うのは筋違いだと思うんですよねえ。

でも、贈った人は「感謝しないなんて、なんて非常識な人なんだろう。なんてしつけの悪い子どもなんだろう」と思ってしまう。そして、周囲からは、この怒りのほうが共感されやすいという面もあったりするんですよ。だって、目に見えている部分では、この人は贈り物をしてて、相手が喜んでない、という状態なのですから。


他人に何かしてあげること。時間や労力、気持ちなどを費やして、相手のために行動すること。あるいは、金銭や物品などを提供すること。
それって本来は、する側の喜びなんじゃないかと思うんですよ。
だって、相手のことが大好きだから、相手が嬉しい気持ちになってくれたらいいな、と思うから、いろんなことをしたり、何かをプレゼントしたりするわけでしょう?
だったら、そういうことが出来た時点ですでに、相手に対して「ありがとう」とこっちが思ってるくらいじゃないのかしらん。
相手が喜ぶか感謝するかは、それは相手の問題なので、こっちがどうこう言えることではないのです。

だから「ちっとも感謝しない」とか「ありがとうも言わない」って文句を言ってる人を見ると、悲しいなあ、情けないなあと思うのです。
そう言ってる段階で、自分のプレゼントは自分の見栄のためだって白状してるようなものなのにね。

儀礼的なやりとりは社会の潤滑油であるとも言えますが、そこにあまりにこだわったり縛られたりするのは、なんだか本末転倒だよなあ、と思います。