集団の難しさ | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

たまたまjoshさんのブログでも通学という話題が出ていて、おお!と思ったんですが、joshさんのブログの方は、グローバルなお話(世界の通学路という映画のお話)でした。
私も似たような話をテレビで見かけました。
学校まで何日もかかる道のりで(そのため寄宿舎生活をしている)、時には命の危険すらあるという、非常に厳しい道のりを歩いて学校へ通う子どもたちの姿が紹介されていました。

日本でも、昔ですと、山越えして何時間も歩いた、なんていう話があったりしましたが、「学校へ通う」というのは、ただ単に移動というだけではない問題をはらんでいるんですね。

私の息子が通う小学校もちょっと離れたところにあるために、毎朝30~40分くらいかけて歩いて通っております。
今年は、人口の流入によって子どもが増えたこともあり、登校班が一クラス分くらいあるほどに人数が増えてしまいました。
その結果、いろいろと問題が生じてきて、ここ2ヶ月は地区の役員で頭を悩ませています。

大人から見れば、ひとくくりに「子どもたち」であって、なんとはなしに「子どもは元気に歩くもの」というイメージが先行しがちです。
誰とでも仲良く、楽しく学校へ通う姿、というのは、大人から見た理想像なんですが、当の子どもたちにしてみれば、「そんなうまくいくかよ」と言ったところじゃないかと。

子どもにだって当然日頃の人間関係があって、馬が合うとか合わないということはあるわけです。
また、「集団で歩く」ということは、他人のペースに合わせる、ということでもあり、これは子どもにはなかなか難しいことでもあるのです。
特に低学年ですと、体力差もありますし、周りの雰囲気をどれくらい気にするか、とか、あるいは家で面白くない思いをしているとか、さらには、学校そのものに魅力を感じられない、といった理由もあって、そう簡単に「元気よく並んで歩く」なんてことはできなくなります。

もし、本当にすべての懸念を解決しようとするなら、どこまでも他所の家庭に深入りして関わりあっていかなくてはならなくなるんですが、そんなことは無理なこと。

もっと言えば、そもそも、「完全なる解決策」なんてものが、本当にあるのかどうか、ということにもなってきます。
落としどころをどこに持ってくるか、ということも、周りの大人は考えなくてはいけないんですね。

しかし、子供だけで学校へ通うという集団登校という方法は、単に子どもをまとめておきたい、という都合だけではなく、防犯や安全という側面から採用されている方法でもあります。
交通の激しい場所を通ったり、信号を渡ったり、ということを考えると、少しでも安全なように、ということで、地域の子どもたちがまとまって登校するようにしてるんですね。
帰り道はどっちみちバラバラで帰ってくるので、厳密に言えば朝だけ気をつけても仕方ないとも言えるんですが、それを言い出すともうどうにもならない。

うちの地域は、小学校のすぐ近くに幼稚園があり、そこの卒園児が小学校へ上がるというパターンが多いのです。そしてその幼稚園ではスクールバスによる登園方式をとっています。
つまり、つい去年まではバスで通っていた幼稚園と目と鼻の先の小学校へ、今度は自分の足で歩いて通わなくてはならなくなる。しかも、重い重い荷物を持って。
毎年、この4月5月は、あたかも理不尽な運命にうちひしがれた人のような姿の1年生がそこここに見受けられるわけです。
そういう状態にすぐ順応できる子もいれば、なかなか慣れないで、毎日ヘトヘトになる子もいる。それでも、毎日通っていれば、いずれは慣れて平気になっていくことの方が多いんです。
それを、周囲の大人がどう見守っていけるか。

親だって、ただ同じ地域に住んでいるというだけ(うちのあたりは新興住宅地なので、昔から住んでいるという人は少ない)、ただ同じ小学校に通っているだけ、という共通項だけでつながっているので、まあそりゃいろんな考え方の人がいます。

営利目的ではないだけに、意思疎通も難しいし、考え方のすり合わせも難しい。
子ども会の役員は女性が多いので余計にややこしくなります。どうしても感情や感覚が重要になってきますしね。

息子と風呂に入っている時にいろいろ話をしたんですが、話しながら「ほんとに難しいもんなんだな」と思いました。それは息子にも少し伝わったみたいです。
いろんな感覚、価値観の人と、なんとか気持ちを合わせて、子どものことを考えていく。
それが大人の役目なんでしょうね。

いや、ほんとに、集団って難しいです。
あちらを立てればこちらが立たず、を日々痛感しております。(_ _。)