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何歳まで恋したい? ブログネタ:何歳まで恋したい? 参加中
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昨日の「れりごーの話」から思考がつながってる。
「アナと雪の女王」は、女の子が不自由さから解放される希望を描いた物語なのだ、という意見を見かけて、昨夜の関ジャニ∞の「仕分け」番組で主題歌の歌合戦を聞いて、そして改めてyoutubeであの場面とともに歌詞を見ながら歌を聞いて。

改めて「恋」ってなんなんだろなと思ったのだ。

ブログネタのところには、高齢者施設での高齢者の恋愛に驚いた話が載ってたけど、それはまあ、今更何を驚いているんだっていう感じではある。
「年寄りは枯れてしまって恋なんてしないんだ」っていうのは、現役世代の単なる希望的観測。めんどくさいから年寄りはカラッカラに枯れていてくれよ、という願望にすぎない。

(いつのことだか正確には特定できないけど)昔は、ある一定の年齢になったら、家督を長男に譲って隠居するという制度があった。武士でも農家でもさほど違いはなかろう。武士はかっちりとした制度として「隠居」という形があった、ということだ。
昔は平均寿命も短かったから、50,60くらいになるとわかりやすく「年寄り」になったことだろう。そうして、現役世代の生活に影響を及ぼさないためにも、繁殖活動に結びつくような衝動にはブレーキをかけようという風潮があったと思うのだ。
周囲から「いい年をして」と圧力をかけると、やがてそれが内在化して、自分でも「いい年をして」とブレーキをかけるようになる。
そうやって、「年をとると人間枯れてきて色恋沙汰からは卒業するものだ」という認識が形成された。

確かに、実際の性行為を伴う色恋沙汰は減るかもしれない。物理的に不可能になってくる、ということもあるだろうし、基準を若い時に置けば、そりゃあ若い時と同じようなことはできなくなる。

しかし、「恋」とは、性欲だけでできているものではない。源泉はそこだとしてもね。
生殖、繁殖に直接結びつかないときだって、「恋」という感情は生まれる。

だいたいさ。
「高齢者」と一口にいうけれども、あるとき突然「高齢者」という存在に変身するわけじゃない。
これは、「子ども」とか「嫁、妻、母」なんかと同じように、ある時突然そういう生き物に変身すると思われがちなのだが、よおく考えてみて欲しい。人間がそんな変身の仕方を、果たして本当にするものだろうか。
誰だって連続した時間軸の中を生き続けてきているわけで、「昨日の私」と「今日の私」に、目に見えるような大きな変化があるわけではない。
だとしたら、「高齢者」という存在にだって、あるとき気づいたらその範疇に足を踏み入れてしまっていたぞ、という、ある種の発見に近いものだったりする。
それなら、いわゆる「高齢者」に自分がなっていたとしても、今までと同じように、好ましい異性を見つけたら仲良くなりたいと思うだろうし、ライバルが出現したら奪い合いの修羅場だって演じてしまったりするだろう。

「もう恋なんてしない」といちばん思う時って、たぶん「結婚している、と強く自認しているとき」なんじゃないかな。
思春期に大失恋をしたとき、その傷のあまりの痛さから、一時的に「もう恋なんてしないよぜったい」と思うことはあるが、単身であれば、いつしか傷も癒えて、「あれ?これってもしかして?」なんて思う時がくるものだ。
しかし、「私は既婚者」と強く認識しているときは、「恋=人の道に反すること」になってしまうので(だって恋の対象はたいていは配偶者以外の人だから)、「人妻たるもの、恋なんて言語道断」という感覚になるんだろうなと思う。
面白いことに、夫の方はそうは思わない人の方が、割合としては多いようなんだけども。

誰かを、「いいな」と思う気持ちのことを「恋」と呼ぶのなら、既婚者であろうとなかろうと、いつだってそういう感情を持っていた方がいいと思う。
自分の配偶者にずっとそういう感情を持ち続けられたらそれが一番ステキなことだとは思うんだけど、悲しいかな、毎日当たり前のように近くにいる人に対しては、感覚が鈍麻していくのが人の常なのだよね。そうしないためには、それなりの努力がいるのだ。
毎日一緒にいる、一緒に暮らすというのは、素晴らしいことである反面、容易に「慣れ」や「当たり前感」を発生させてしまうことでもある。
どれだけ、新婚のときに「ずっと愛し続ける」と誓っても、波風の立たない平穏無事な日常を送り続けていたら、慣れてしまうし、飽きてしまうものだ。これはもうどうしようもない事なんだよね。だからこそ、継続する努力が必要になる。

意外とこの「努力」を軽視する人は多いよね。法律婚という形式を踏んだからというだけで安心してしまう、っていうのもあるだろう。あるいは、神様の前で誓ったから、というただそれだけのことにすがってしまうのかな。
でも、人の気持ちは一瞬一瞬、新しく生まれて消えていく。
凝固剤で固定することはできないのだ。


私は一度目の結婚のとき、それを実感した。
戸籍だの、形式だのに寄りかかって、なんのメンテナンスもしなかったら、あっという間に「夫婦」というあり方は消えてしまうものだと思った。
今の相手とは、気づいたらもう14年も結婚生活を続けているんだけど、未だに新鮮な気持ちが残っている。それは、逆説的な言い方になるけど、「結婚していること」を当たり前と思わないようにしてきたからなんじゃないかと思う。いつ消えるかわからない、という危機感は常にあった。

それでも、それはもう「恋」という感覚じゃないんだよねえ(笑)
たぶん、もっと落ち着いた何かに変容していると思う。

で、「恋」なんだが。
「あ、すてき」「あ、いいな」と思うことを「恋」だと定義するなら、今でもしょっちゅう恋してる。
異性だと、どうしても外見重視になっちゃうかなあ。いい男、かっこいい男を見ると、一瞬で恋してしまう。具体的な行動には移さない。それをやっちゃうと一気に色あせてしまうから。
同性だったら、もうちょっと積極的になるかな。同性には、肉体的欲求を持たないから、もっぱら内面重視。たくさん話をして、なるべく長く同じ時間を過ごしたいと思う。

「アナと雪の女王」を見ていて、アナがクリストフという青年と知り合い、最後に彼を選ぶかどうかという局面になったとき、ちょっとつまらない気持ちになった。
なんていうかなあ、「ああ、ここで男を選んだら、またありきたりな男女関係の物語になってしまうんだな」と思ったから。
そう、異性との恋愛関係を選んだとしたら、その後に待ち受けている物語はあまり楽しいものには思えなくなってる。どうせ、独占欲だの、支配欲だのの展開になっていくんでしょ、と思ってしまうのだ。
でも、アナはエルサを選んだ。その選択は、ひどく新鮮に見えた。
中盤でエルサが、自分の能力を解放して歌い上げるシーン(つまりここが「れりごー」なわけだが)で、どうしてこんなに高揚感を覚えるんだろうと思ったのだが、何度かそのシーンを見ていてわかった。つまりそこにあるのは、徹底した自己決定の姿だったのだ。
他人からあまり良く思われないような能力を持ち、ひたすらそれを抑圧して「いい子」を続けてきたエルサが、もういい、なんと思われたっていい、自分をそのまま出してしまおうと決意する。そして、その代償としての孤独も、誇り高く受け入れていくわ、と高らかに宣言しているから感動するのだ。

行き過ぎた抑圧の反動だったから、エルサの行動にも行き過ぎた部分は確かにあった。
それを、アナとの関係性の中でうまくコントロールしていけるようになる、というラストもまた、「こうありたい」という希望を感じさせてくれたのだ。
男に庇護され、支配され、指図されるだけの生き方ではなく、共感しあい、支えあい、高め合って行ける関係が、そこに描かれているように思えた。


「恋」は性欲の絡む相手とだけ成立するものじゃない。
というか、常に性欲がらみじゃ、なんか情けなくないですか?
同窓会で、クラス会で、昔好きだった相手に再会したとき、どうしてすぐに肉欲に走っちゃうかなあと思う。わからなくもないですけど、若い時ならともかく、ある程度人生を生きてきたなら、安直に不倫関係に走るのはつまんないと思うんだけどなあ。

そうじゃなくて、「いいな」「すてきだな」と思ったり、自分が生きていることの励みになるような「恋」だったら、死ぬまでしたいと思う。年齢で区切る必要はないよね。