デフォルメの加減 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

「ジャッジ!」という映画を観てきました。
予告編を見ていた時は、今ひとつピンと来なかったんですよね。
「ちくわのCMを国際広告祭でグランプリにするという至上命令をどう達成するか?」がテーマの映画なのかしら、なんて思って食指が動かなかったんです。

公開されて、いろんなプロモーション活動を見ているうちに、いわゆる「業界もの」なんだなと思いました。そして、決め手は、「クライアントの無茶ぶりに振り回されながら、いかに仕事を進めるかという話」だということがわかったこと。
今私がやってるシナリオ教室の課題も、与えられた課題の中で作品を作らなくてはいけません。それがどんなに自分から遠い課題であっても、なんとかひねり出さなくちゃいけないのです。
「できない」って言ってしまったらそこで終了です。
なんか、映画を見たら、その辺を乗り越えていくヒントが得られるんじゃないかな、なんて虫のいいことも期待して、見に行ったのでした。

映画は、大変面白かったです。もうずっとくすくす笑っちゃったし、一度は声を出して笑ってしまいました。
平日の午前中ということもあり、お客さんはほぼ女性。しかもあんまり若い子はいなくて、要するにおばさん率が高かったせいなのか、会場から笑い声が湧いてこないんです。
人が少なかったせいもあるのかなあ。みんなこっそり自分だけで笑ってたのかしら。
私が座った席の並びの人たちは声だして笑ってましたからね。

そして、最後はじーんと感動すらしてしまいましたわ。
ベタな結論だったんですけど、でもやっぱりベタにかなうものはないのかも、とも思いました。
どうベタだったかといえば、「小賢しいことやずるいことはせず、誠意を持って、誠実に事にあたる」ことが結局人の心を打つのだ、ということ。
主演の妻夫木くんは、このあたりを実に見事に表現していたと思います。
彼の、ほにゃ~っとした柔らかい顔つきや、やや情けない声などが、そのキャラクターを完璧に体現してるんですよ。なんでもあて書きだったそうですが。

そういうわけで、映画は大変よかったのでした。見に行ってよかったです。

そのあと、いろいろなことを考えました。
映画はCM業界の裏話です。いかにもなクリエーターとか(豊川悦司さんが絶妙でした)、とんでもないムチャぶりをするクライアントとか、広告祭での審査員たちのなりふりかまわぬ工作ぶりとか、半分くらいはホントのことだって、脚本を書いた人がコメントしていました。
半分は誇張表現なんですが、この「誇張表現」が非常に微妙な問題なのです。

折しも、今期始まったとあるドラマが物議をかもしています。
児童養護施設を舞台にしたドラマなんですが、実在の施設から猛烈な抗議が上がっているそうです。まったく事実と違う、あれでは施設の職員やそこで暮らす子どもたちを侮辱することになる、というんですね。
それに関して、ドラマを作っている世界の人からは反発も出ているもよう。
ドラマの中止を申し入れるという話も出ているようで、どうなっていくのか先行きが心配です。
まあ、たぶん中止はしないと思うんですけどね。

だって、テレビドラマが現実をそのまま引き写している事のほうが少ないじゃないですか。
刑事物にしたって、医療ものにしたって、実際にはあんな刑事はいない、あんな警察はない、あんな医者はいない、あんな病院はない。そういうものです。
じゃあ、なぜそういった極端なキャラクターや設定が使われるのかといえば、「ドラマとはそういうもの」という暗黙の了解があるからです。

私が夏にシナリオセンターのセミナーに参加した時、シナリオの書き方をいくつか習いました。その中に、「キャラクターは極端な設定にすべし」というのがありました。
たとえば、「おせっかい」という性格を持たせるとするなら、単におせっかいな人じゃなくて「おせっかいすぎる人」にする。ちょっとやりすぎるくらいのキャラクターにしなさい、というのです。そうすることで、ハプニングが起こせる。アクシデントが発生する。事件が起きると人はいろんな反応を見せます。その反応を見せることで、ドラマが成立する、というわけです。

現実には、そこまで極端な人はめったにいませんし、もしいても、周囲は極力穏やかで波風の立たないような反応をするでしょう。そうしなければ日常生活を続けることができないからです。
現実は、「何も起きないように努めること」が最も大切で、なにか起きてしまったとしても、やっぱり極力角が立たないように、すべらかにやり過ごそうとするものです。

ところが、フィクションの世界では、それではなんにも面白くない。
ある一定の時間を切り取って再構成する「物語」の世界では、何かか起きて、人々がそれに反応するさまを通して、作者の意見なり、メッセージなりを伝えます。
それがフィクションであり、物語というものなのです。

ですから、現実にも存在するような、警察、病院、学校などを舞台にするときでも、そこに登場する人物は極端なキャラクター設定になっています。現実にこんな人がいたら絶対だめだ、と思うような人ほど、ドラマとして見ていて興味を引くんですね。

また、ドラマ作法の中に「アンチテーゼから始める」というものもあります。
最終的に伝えたいメッセージとは正反対の状況から、お話を始めるのです。
たとえば、ものすごく意地悪な人とか、ものすごくひねくれた人を最初に見せる。その人がいかにもひどいことをするさまをしばらくは描くわけです。
先日見た「僕のいた時間」でも、主人公はなかなか仕事に馴染めず、先輩からはネチネチと嫌味を言われていました。弟すらも、人間性を疑うような言葉をぶつけられていました。
ああいうのは全部、後でひっくり返すためにあるのです。
前がひどければひどいほど、見ている人はムカムカします。心をかきむしられるわけですね。そうしておいて、それをくるっとひっくり返して見せれば、最初からめでたしめでたしを見せるよりもずっと効果的なのです。そういうのが人の心理というものなんですね。

だから、児童養護施設が舞台のドラマでも、きっとこれからそれをひっくり返していくのだろうと私は思っています。テレビ局が掲げているドラマのテーマはそういう方向になっていますしね。

ただ、中止を申し入れた施設の人の危惧もわかる気がします。
「視聴者はそこまでバカじゃないぞ」というツイートを見かけたんですけど、果たしてそうかなあと思うからです。
「逃走中」というバラエティ番組を見て、その出演者の行動に本気で文句を付ける人がいるご時世です。
刑事とはこういうもの、医者とはこういうもの、病院とはこういうところ、という漠然とした根拠の無い、でも確固とした思い込みは、いったいどこから発生しているのか。
障害者に対するイメージは、いったいどこから生まれてきているか。
青木ヶ原樹海で自殺しようとする人は、いったいどこからその情報を得たのか。

ここで重要なのは、それらはすべて、単なるイメージだけ、ということなのです。
官僚が威張り腐ってるだけの人間だ、というのは、実際に自分が調べたことなのでしょうか。そうではなく、新聞やテレビなどが流す情報から、「なんとなく」そう思ってるだけだ、ということはないでしょうか。

ドラマも同じです。
ドラマが流すイメージって、けっこう定着してしまうものなのです。映像付きの物語って、自分で思ってるよりも強く残るんですね。
だから、いつのまにか定型ができあがってしまう。
すると今度は、ドラマを作るほうがそれに追随するという状態が生まれます。
「こういうときは、こんなふうに書かないと、視聴者にアピールできない」というドラマ作法が生まれるんですね。

もちろん、もともとある「物語のパターン」も大きな力を持っています。
そして、人間が必ず感動してしまう展開というのも存在します。
そういうものと、ドラマのしてのステレオタイプが合体すると、大変大きな影響力を持ってしまうのです。

刑事物、警察もの、医療ものは、今までにたくさんのドラマが作られたことで、ある程度は「フィクションとしてのデフォルメである」という理解が広まってきたかもしれません。
新しいドラマが始まったときに「実際の刑事はあんなことはしない」とか「あんなふうに描かれたら病院や医療者がそういうものだと誤解されてしまう」というクレームが来ることはないでしょう。イメージは刷り込まれてしまうかもしれませんが、一応は「作り物である=現実とは違う」という共通認識があるのです。

ところが、児童養護施設はドラマとしてはあまり見かけない素材です。ないわけじゃないけど、描くにしてもやや及び腰のところがあった。家族や親子という問題は、ドラマの宝庫ではありますが、非常にデリケートな分野もあるからです。
だからこそ、ドラマとして取り上げようとしたのかもしれません。TV局の意向は私にはわかりませんけども、今の時代だから、虐待とか親子関係といったものにスポットライトを当てて、問題提起しようとしたのかもしれません。
そのときに、やはり今までのドラマ作りの方法として、極端なキャラクターや設定とアンチテーゼから話を始めたために、現実にその仕事に携わっている人がびっくりしてしまったのかもしれない、と私は思いました。
ドキュメンタリーではないし、当該施設をあからさまに暗示して非難しようとしているわけでもないでしょうから、ドラマの放映中止は難しいとは思います。
世の中の、テレビに対するつきあいかたを見れば、「あのドラマで、現実もそうなんだと思われてしまう」という危惧も、必ずしも荒唐無稽な発想ではないと思いますけどね。

とはいえ、私がそのドラマを見ることはないと思います。
最近そういう、わかりやすいアンチテーゼの描写がどうもしんどいのです。
登場人物が嫌なことやひどいことを言ったりやったりするたびに、「どうせ後でひっくり返すんだよなあ」とうんざりしてしまう。
誤解とか、行き違いなどもそうですね。思い違いで諍いが起きる、なんていう展開はもうイライラします。なぜそこで一言聞かない?とか、なぜそこで折れない?って思ってしまう。
もちろん、聞いたり折れたりしたら、そこでドラマが終わってしまうからそういうことをしないんですけど、そこまでわかった上でドラマを見続けるのがしんどいのです。

そんな、あざとく、わかりやすいアンチテーゼの描写が必要なのかな、とも思うんですよね。
もっと自然なやり方はないのでしょうか。

ないわけでもなさそうなんですよね。
たまたま今日、本屋で、木皿泉さんの「木皿食堂」をいう本を見つけました。
今読んでる最中なんですが、いろいろと心強い話がたくさん入っています。

今は勉強中の身なので、いろんな手法、技法を身につけなくてはなりません。
でも、私が好きなこと、好きなやり方もありなんだよな、と励まされたような気がしています。

どこまでデフォルメするか。どこまで現実に近づけるか。
でも、現実をそのまんま切り取っても、物語としては成立しない。
そのあたりのさじ加減が、とても難しいようです。