家族の境界線 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

薬師寺ツアーの記事で書き忘れたことがひとつ。
お坊さんのお話を聞きながら、浮かんできた疑問がありました。
それは、「お釈迦様は出家されるときに、妻子を捨てたじゃないの」ということ。
出家ですし、捨てたという言い方は違うのかもしれませんが、どっちにしろ、一度結婚し子どもができてから出家したわけですよね。

このあたりのイメージは手塚治虫版の「ブッダ」から得ておりますから、事実とは違っているかもしれません(出家ということの意味合いにおいて)

いろんな事情があったにせよ、妻(女性)と子を現世において、自分は修行の道へ身を投じたわけです。
ここにねえ、どうしてもひっかかるんですよ。

マホメットさんもイエスさんも、たぶん殆どの宗教で、女性は「誘惑するもの」「悪」としてとらえらえています。男が己の性欲に負けて道を踏み外すのは、女が誘惑するからだ、というのが基本概念としてあるような気がするんですよ。
冗談じゃない、と思うんです。
女がそこにいるだけで、ふらふらしてしまうのは男の勝手じゃないですか。
百歩譲って、女のほうが生き物の本能として接合を望んで近づいてきたとしても、それを「悪の誘惑」にしてしまうのは男の方じゃないかと。

私は、宗教とは哲学だと思っていますが、その哲学を極めるのに己の「自然」が邪魔するからといって、相手を「悪」と認定して切り捨てようっていうのはどういう了見なんでしょう。

そこがね。イマイチ、宗教に入り込めない要因ではあります。
「男の世界」と肩肘を張るけれども、それは裏を返せば己の「自然」をコントロールできないから相手に非を押し付けてごまかそうとしているだけなんじゃないかとも思います。

いろんな宗教が想定する「家族観」とは、つまりは男性が規定したものであり、だから大抵の場合、女性は異常に崇め奉られるか、低く見て切り捨てられるかのどっちかになってしまうのでしょう。キリスト教にせよ、仏教にせよ、その観点にぶち当たると一気に冷めてしまいます。


これ、別に男性が悪いっていうことでもないとは思うんですよ。
自分で子を生むわけではない男性は、そうでもしないと存在価値を示せない、という側面も確かにあるわけで。

じゃあ、女性はどうなのかというと、女性は女性で困った一面があったりするわけですわ。

先日、「家族の裏事情」という新ドラマを見ました。
第1回の放送でしたから、ちらちらと意味ありげな伏線シーンがたくさんありました。
これからはその伏線を回収していく形でドラマが進むんだろうなと思ったのですが。

その中で一箇所、ものすごくひっかかったシーンがありました。
ドラマはある定食屋の一家の物語です。
中年に差し掛かった夫婦と、3人の子ども。男、男、女で、22,20,14という年齢構成になってます。
第1回では、22歳の長男が突然結婚すると言い出して、相手の女性を家に連れてくるという騒動のお話でした。
このときの、お母さん(財前直見さんが演じています)の反応にひっかかってしまったんです。

突然の結婚宣言に動転したというエクスキューズはあるにせよ、彼女は息子の結婚に関して激しい拒絶反応を示します。
そして、「家族がバラバラになっちゃう」と嘆くんですよ。
今までずっと家族が一致団結して仲良くやってきたのに、それを長男が壊そうとしている、というわけです。

私は、「このお母さんにとっての家族って、今、目の前にいる夫と子どもだけなんだろうか」と思ったんですよ。
長男の結婚宣言にショックを受けて、一人家族のアルバムを見るシーンがありました。
「石和家の歴史」みたいなタイトルがついていて、自分たちが結婚した時の写真、子どもが生まれたときの写真、子どもたちが成長していく姿などを見て、涙します。
「このころはよかった」っていうんですよね。回想シーンでは、幼かった長男次男が「おかあさーん」と懐いてくる場面が使われていました。

ある意味すごくベタな作りなんですけど、非常にわかりやすく共感しやすいシーンになっていました。
ああ、母親というのはある時期、王国の王なんだなと。
夫を迎えて子どもを産み育てる。幼い子どもにとっては母親である自分は絶対で唯一無二の存在です。特に男の子はねえ。今、私も男の子を育てているのですごく共感してしまったんですけど、圧倒的に母親に懐くものなんですわ。
そうやって、自分の権力の下で作り上げてきた王国が、外部からの侵入者によって崩壊されられそうになる。そりゃあまあ、「絶対反対」って思うだろうし、いざ嫁がやってきたら、根本的に気に入らないにきまってますわね。

でも、そう思っている自分だって、かつては、「外部からの侵略者」であったことを忘れてる。

そういう状況を、あのドラマはくっきり描き出していました。

「家族は大事」だとか「家族を守る」という言い方をしますが、そういうときの「家族」の境界線っていったいどこにあるんでしょうね。
あのドラマに出てくる一家にとって、特に母親にとっての「家族」は、夫と3人の子どもたちだけのように見えました。
まあ、彼女がそこまで自分の家族にこだわるにはそれなりの理由がある、ということにはなってるみたいですけど。
それにしたって、本来は流動的であるはずの家族関係をある一瞬で永久保存しようとしている姿は、本末転倒というか、痛々しいものに見えました。

実際、こういう女の人はたくさんいるみたいですけどね。
口では「子どものしあわせを願っている」と言いながら、実は自分の望むように子どもが動くことだけを期待している、とか。
だから、自分が気に入らない、嫌いなことをしようとすると、全力で阻止しようとするんですよ。
「あまちゃん」の初期のころの春子さんみたいに。「あんたはあたしが嫌いなものばっかり好きになるのね」っていうのはかなり象徴的なセリフだと思いました。


夫婦別姓になると家族が崩壊する、と思うのは、おそらく「しなくてはならない努力」をしたくないからでしょう。他人同士が「夫婦」という濃い関係を継続していくための努力は、同姓にするより、別姓の方が常に意識的に行われなくてはならないはずですから。
婚外子を「お父さんが浮気してよそに作った子ども」だと思うから、浮気したお父さんを責める前に、「お父さんを誘惑したよその女」に対する怒りが先に立ち、ついでに、分前をかすめとっていく存在である「子ども」に対する怒りとなるのです。
でも、婚外子というのは、別にそれだけに限ったわけじゃないんですけどね。
どうしても「お父さんが他所で浮気して云々」という捉え方になってしまう。
この「他所で」というところがポイントなんでしょうね。

もし、血縁関係が重要である、というなら、父親の血をひいているという意味で、どっちの子も同じ地位になるはず。
でも、実際にはなかなかそうはなりません。
なんだろなあ、ここに、「愛と所有権の問題」が発生しちゃってんでしょうね。
人間はほんとめんどくさい。


私は、家族っていうのは非常に流動的なものだと思っています。
常に形を変えていくし、その構成員も変わっていくものであると。
そもそも、人間は生物ですから、時の支配を受けています。刻一刻と年を重ねているんですね。
それだけでも十分な変化ですわ。
そして子ども。
確かにずっと自分の子どもではありますが、子どもだって成長する。というより、むしろ、家庭の本来の機能は「生まれてきた子を一人前にする」ことだと思うんですよ。
となれば最終目標は自立であり、自活して自分で繁殖していけるようにすることですから、手放すことが大前提のはずなんです。
それを、小さい時のかわいさに惑溺してしまって、いつまでも自分の手の内に囲い込もうとする。
現代の日本の情勢から、子どもの側も親に抱え込まれている方が楽だったり、抱え込まれてないと生きていけなかったりするから、いつまでも親の庇護のもとにいようとする。
それを「美しい家族の姿」と読み替えてるだけなんじゃないのかなあ、という気がしてなりません。

時と場合によって集合離散することは、決してかわいそうなことでもないし、悲惨なことでもない、と思うのです。そういう意味付けをしてしまうから、現実に集合離散することになった人たちが苦しむ。
もっと緩くていいと思うんですよねえ。
別の血のつながりにこだわる必要もないとも思うし。
「血の繋がった実の子だけが正しい存在である」という価値観が根底にあるから、自分で生むことにこだわらざるを得なくなるんじゃなかろうかと。
今朝も新聞で不妊治療に関する連載記事を読んだんですが、なんとも言えない気持ちになりました。
そういう努力をすることが間違ってるとは思いませんが、違う価値観もありだと思えたら、もしかしたらもっと苦しみが減るんじゃないでしょうか。
自分で産んで自分で育てなくては、「正しい子ども」ではない、という考え方が、沢山の人を追い詰めて苦しめています。
「次世代の人間を育てたい」という欲求であるなら、それが養子であっても構わないはずです。それがうまくいかないのは、社会に「血のつながり」を絶対視する価値観があるからでしょう。

長い人生のひとときを共有して助けあって暮らしていく人たちを「家族」と捉えることができたらいいのにな、と思います。
そしたら、他人だのなんだのっていう境界線をとっぱらうことができるんじゃないかなあ。

保険のことを考えだすとどうしてもこの「家族」という概念にぶち当たってしまいます。
家族。家族ってなんなんですかね。(>_<)