眼球、その視線の先にあるもの | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

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本日から始まりました「オディロン・ルドン 夢の起源 幻想のふるさと、ボルドーから」を観て参りました。
この展覧会では、ボルドー美術館からの出品もあり、ルドンの起源に迫る展示となっていました。
ルドンに多大なる影響を与えたアルマン・クラヴォーという植物学者の標本画ですとか、ルドルフ・ブレスダンという画家の作品がいくつか展示されていて、大変興味深いものでありました。

三部構成になってまして、第1部でボルドーについての作品、第2部が有名な「黒」の時代、第3部で色彩の時代が紹介されています。

やはり印象深いのは「黒」の時代、それも、眼球をモチーフにしたものです。
あ、「笑う蜘蛛」も有名ですな。美術館の入り口の床に笑う蜘蛛が描いてあって、一瞬ぎょっとしました。いくら笑ってても、あの黒さとあの足はあきませんわ(笑)

いくつもいくつも、ぎょろっとした大きな目玉が描かれているわけですが、なぜ、どの目玉もみな上を睨んでいるんでしょうね。ほとんど、どこかへイッてしまってるかのような黒目の位置が、大変落ち着かない気持ちにさせました。
こっちを見ている目、というのはないんですね。あっても、そういうものに限って目線が弱い。
たいていは上を睨んでいるか、そうでなければ閉じられた目です。
横顔ですと、伏目がちなものが多かったような気がします。
あんなに執拗に眼球にこだわり、何度も何度も描いているのに、こっちは見てない。
なぜ見てないんでしょうね。

先日、ポール・デルヴォーを観たときも思ったんですが、あの絵の中の静謐さはなんなんでしょう。どうしてあんなにぺたっと止まってしまった感じがするのか。
ルドンの初期の絵で、海岸にあるバラ色の岩を描いたものがあったんですが、その絵を観た時一瞬息が止まりそうになりました。
なぜそんな気持ちになったのか、落ち着いて絵を眺めながら考えてみたんですが、あの絵の構図がうっすらと狂気を感じさせたからじゃないだろうか、と思いました。
半々で空と砂浜が描かれていたと思うんですが、その境界線のあまりの真っ直ぐさと、ど真ん中にある岩の硬さが、几帳面生真面目をちょっと通り越した感じを醸しだしていたような気がしたのです。

ルドンという人は大変生真面目な人だったようです。そういう性格は、いくら幻想的な世界を描いても、いや、幻想的であるからこそかもしれませんが、絵のタッチに出るもんなんですね。

後年の、色彩の時代になってからの筆使いは柔らかく、初期の頃のような硬さはありません。
私がルドンを知ったのは、たぶん学校の美術の教科書に載っていた「花」という作品だと思うんです。ここからルドンに入ったので、ずっと長い間私は、ルドンというのは、こういうふんわりした幻想的なお花を描く画家だと思い込んでいました。

冒頭にアップした写真は、ショップで購入したクリアファイル。
眼球や蜘蛛のものもあったんですが、ずっと手元に置くのはちょっと……と思ってやめました。

「黒」の時代の執拗さ暗鬱さには、すごく引きこまれます。でも引き込まれる分、しんどい。
やっぱり私は色彩の時代のルドンが好きだなあ、と思ったのでありました。



それにしても。
画家というのは不思議な人種です。
どうして、なぜ、あのような絵を描くのか。どうしてあんなふうに描こうと思うのか。
繰り返し同じモチーフを描くのは、自己表現として作品を創るものの業なんでしょうかね。
小説家でも、気がつくと繰り返し同じモチーフを描いてしまうことがあるようですし。
それが「テーマ」ということなんでしょうかね。
そのとき、どうしても気になることを「絵」という形で表出するか、言葉を紡いで表出するかの違いなのかもしれません。
にしても、絵というのは具体的に形になっているものですから、画家が気になっていること、ものがなんなのか、一目瞭然になるもんなんですね。
いろんな画家の絵を見るたびに、「どうしてこの人はこういうふうに描きたいと思ったんだろう」と考えてしまいます。
そういう観点から行くと、写実主義は困っちゃいますね。だって写真でいいじゃん、ってことにもなりかねませんから。でもこれまた、絵と写真は決定的に違うわけで、そういうことを考えていくとわけがわからなくなります(笑)。


そうそう、どうやら来年にはシャガール展も開催されるようで、楽しみであります。