ドラマ、総まとめ | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

1位 蟹座

★今日の運勢
これまでずっと悩んでいたことが、スッキリ解消されそうです。今まで心に引っかかっていた問題がクリアになり、あなたの視野が大きく広がります。自分の中に新しい可能性を見出すこともできるでしょう。

★今日のラッキーワード
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嘘でも嬉しい占い1位(笑) 冒頭に掲げることで気持ちもあげていこうかと。


この時期、春のドラマが次々に最終回を迎えておりますな。
見てませんでしたが「鴨、京都へ行く」も先日最終回でした。「幽かな彼女」の前なので、なんとなく眺めていたんです。けっこうな大団円だったんじゃないですか?
椎名桔平さんが新たにあの旅館のコンサルタントかなんかに採用されたりしてね。
なんとなく京都の描き方(京都人のメンタリティとか)がステレオタイプな感じがして、それと、やっぱり京都弁がぎごちないところが気になって、毎週視聴するとこまではいきませんでしたね。
なんていうか、「いかにもドラマ的な展開だ」と思ってしまうんです。

「ドラマ的な展開」といえば、昨夜堂々の最終回を迎えた「家族ゲーム」も、ある意味非常にドラマ的な展開を見せてくれました。
第9話までの息詰まるような心理戦が、いったいどこに着地するのか。果たして沼田家に再生の道はあるのか、と、ハラハラドキドキしながら見ていました。
珍しく夫もこのドラマにハマったんですが、第4話5話あたりのころに、「このドラマ、どんなふうに終わるんだろう」としきりに心配していました。それは、「できれば大団円のハッピーエンドになってほしい」という願望ではなく、むしろその正反対の気持ちでした。安易なハッピーエンドだけはかんべんしてくれよと。ああ、みんないい人になって、めでたしめでたし、よかったよかった、という終わりでは許せない、という気持ちだったのです。
それくらい、ハマり込んで見てたってことでしょうね。

つまり、ここでいう「ドラマ的展開」というのは、ご都合主義だったり、安直なハッピーエンドだったり、ということを表しているわけです。
「ドラマだからね」「ドラマだから仕方ない」という言い方をするときがあります。
人があっさりと心を入れかえてしまったり、簡単に人を許したり、愛しあったりする。
時間の制約やら、スポンサーの意向やら、はたまた視聴者の反応やらで、どうしてもそういう、ありきたりで、そのくせ現実離れした展開になってしまうことが、実によくあるのです。

もちろんフィクションの世界ですから、「こうだったらいいな」とか「こんなふうになれたらいいな」という夢や願望を描くことが大事です。それでなくても世知辛い現実を、わざわざドラマの中でまで見せつけられたくはない。
しかし同時に、だからこそリアルな物語を見たい、という気持ちもあるんですよね。

ふわふわと優しく甘いドラマに癒されるときもあれば、ヒリヒリするような厳しいドラマで現実を再認識したいときもある、ということです。

シナリオの勉強を始めてから、初めて「ドラマを作ることの難しさ」に気づきました。
他人が作ったものをとやかく言うのは非常に簡単で楽ちんなことですが、いざ自分が書こうとすると、つい安直な方向に流れたくなったり、ステレオタイプな反応や展開に持って行きたくなります。なぜなら、楽だから。
人はみな善良で、多少行き違ったとしても話しあえば分かり合える。失敗してもいつでもちゃんとやり直せて、いつかは必ず幸せな時が訪れる。
そういう話にしたくなってしまうのです。
そうじゃない展開にすると、今度は自分の心の深い部分と向き合う必要に迫られます。あるいは、「こんな暗い展開じゃ、誰も見たくないんじゃないか」という思いにかられてしまう。
安直な展開のドラマを見るとつまらないと思うくせに、自分が書く時はそういうほうが受け入れられるんじゃないかと思ってしまう。というか、暗い展開は受け入れられないんじゃないかと思ってしまうのです。そこを押し切るためには強く自問自答していかなくちゃならない。

逆に言えば、心に残るドラマというのは、必ず制作側になにかしらの強い思いがある、ということです。
昨夜の「家族ゲーム」もそうでした。セリフとしてはかなり生硬な感じのものが多くて、「悪の体現者として」なんて、ふだんはあんまり聞かない言い方だよなあと思ったんですけど、それでも脚本家の主張としてそういう言葉を使いたかったのだろうな、と。
正直、沼田家がうそ臭いくらい明るく、着々と家族再生を実現していく場面は、がっかりしていました。なんだよ、なんでこんなにトントン拍子に明るくなっちゃうの?って。
きっかけは、いじめをやめた茂之くんの姿でした。彼の強さに、家族全員が何かしら心を動かされ、父親は無駄なプライドを捨て、母親は自立し、長男は改心しました。そうして一家には心からの笑顔が戻ったのです、という展開は、あまりにも順調すぎて怖いくらいでしたよ。
これまでのドラマの流れからいったら、またどこかでひっくり返されるんじゃないか、これもまた嘘なんじゃないかって、違う意味でドキドキしました。
でも、そうじゃなかった。沼田家は再生したんです。再生できたってことになったんです。
そして最後に慎一くんが、吉本荒野を名乗る田子雄大に会いに行きます。でかいカッターナイフを持って。
慎一くんと田子雄大との対決シーンは、何重にも意味の裏返しがありました。
私には、ちょっとむずかしかったなあ。慎一くんは怒ってたんだろうか。怒ってはいましたよね。でも、その怒りはもしかしたら、すべて吉本荒野の手のひらの上で踊らされて、家族再生まで仕組まれたことに対するいらだちだったのかもしれない。そういう荒療治による痛みが怒りに変換されたということかもしれません。だから、全部吐き出したあと、「ありがとうございました!」と頭を下げたのでしょう。最初に痛みを吐き出さないと感謝には行き着けない、ということだと思いました。
沼田家だって、家族全員が醜い本音を力いっぱいぶつけて、みんなで痛い思いをしたから、ようやく笑い合えるようになったのかもしれないし。

ラストの、「いいねえ」はドラマの構成としてはすごく面白かったです。誰かが書いてましたが、演出が「キサラギ」と同じ人で、終わり方が同じパターンだと。最後の最後で、嘘かホントか撹乱する手法です。こういうのは心がかき乱されて実にいいですよね。


原作の小説ではあんなにはっきり家族は再生しません。というより、むしろ混乱の度合いを深めるという感じで終わっています。
そういう意味では、あの沼田家の再生の仕方は、非常に「ドラマ的」だなと思いました。こうあってほしいという理想の状態を描いているという意味で。
実際にはああいう家庭は、あんなふうにはなかなか再生できないんじゃないでしょうか。人はそんなに簡単に変われません。なぜなら弱いから。弱い人ほど「そんなことをしたら自分じゃなくなる」という怯えを強く持っているものなのです。
自分は間違ってない、自分を変える必要はない。弱い人ほどそう言います。変えるのが、変わるのが怖いから。だから、相手だけ変えようとするんですねえ。「夫さえ変わってくれたら」「妻が変わってくれたら」「子どもがちゃんとしてくれれば」「親が変わってくれれば」って。
あのドラマのように、他人が変わっていくのはすごく簡単なことのように見えるのです。
茂之くんが、あの暴行現場で「もうやめようよ」と言い出すことは、他人がやることなら至極簡単に思えます。「言えばいいじゃん」っていうだけだから。でも、それが真実自分のことだったとしたら。あの場に立っているのが自分だったら果たして言えるでしょうか。
父親が、再就職のために歩き回っている。かつて自分がリストラした同僚の元へ行って、不採用になったときに、あそこまで素直になれるでしょうか。プライドだけが支えだった人なんですよ。
母親はね、実はいちばん変わりやすかったかもしれません。女がほんとに腹をくくったら、けっこう強いもんですから(笑)。でもその「腹をくくる」までが大変なんですよ。

現実には難しくても、こうあってほしいという理想を描くのがドラマなのかもしれません。
そういう意味では、今朝の「あまちゃん」もまさにドラマならではの展開でした。
三代にわたる母と娘の相克が、すーっと解決されている。
私は、まさか自分がNHKの朝ドラを見て涙を流すとは夢にも思いませんでしたよ。
なのに、アキの部屋で春子さんとアキちゃんが話し始めたあたりから、どうにも胸が苦しくてたまらなくなりました。
アキちゃんが目をキラキラさせて自分の夢を語っているところや、それを聞いた春子さんがどんどん苦渋の表情を浮かべていくところ。そして、ついには夏バッパとの対決シーンになるにいたって、涙が止まらなくなってしまいました。
なんでこんなに涙が出るんだろうと、我ながら不思議でした。何がそんなに迫ってくるのか。

結局あの家では、まったく同じ事が繰り返されていたのでした。
子どもの夢を大人が潰す。それが親のつとめだと信じて。そして夢を潰された子どもは何重にも心を捻らせていく。
春子さんの、あの、頑ななまでの拒否ぶりがずっと気に触っていました。なぜそこまで独断的になってしまうんだ、と。「子どものしあわせを願っている」といいながら、でも自分が掲げている「幸せ」の形は悲しいほど定型的で中身がない。
そして決定的なのは、もし子どもが親の言うとおりにして、結果不幸になったとしても、親は責任を取れないということから目を背けているということです。
春子さんも、実際には親の反対を押し切って上京し、アイドルになった。でも、挫折した。だからこそ、今、娘のアキが同じ事をしようとしているのを全力で阻止しようとしているわけです。

このあたりの連鎖の様相が実にうまく描かれていました。
そして、ここがドラマたる所以なんですが、夏バッパは春子さんに頭を下げた。
「悪かった。申し訳なかった」と謝罪したんですね。
これが。この行動が現実にはなかなかない行動だと思うんですよ。
そして春子さんはつぶやく。「あたし、謝って欲しかったんだ」と。
一言でいい、あのときは私が間違ってた、と認めてほしかったんですね。
今更謝っても時は戻せませんが、親だって間違うことはあると親自身が認めてくれることで、関係性が変わってきます。そこで初めて「でも、子どものことを思うゆえの、過ちだったんだよね」と思うことができるわけです。
親子(特に母娘)問題で悩んでいる人には、刺さる場面だったんじゃないでしょうかね。少なくとも私の胸にはぐっさり刺さりましたですよ。



ドラマというのは、「あえて」そういうふうに描く、ということで、現実に埋もれている何かを引っ張りだしてくる働きがあるのだということがよくわかりました。

うーん。なおさら、難しくなっちゃったなー(泣