定型思考の落とし穴 | 10月の蝉

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取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

手紙やビジネス文章などには、定型文というものがあります。
「貴社、ますますご繁栄の候~」とか「みなさまのご健康とご多幸をお祈りいたします」みたいなもの。
形が整うし、いちいち内容を考えてかかなくてもいいので、大変便利なものです。
こういうのを真剣に読み解いて、書き手の本心を探るなんてことをする人はまずいないと思います。みんなそういうものだと思って読み飛ばす箇所だから。でもその一文がないとなんとなく座りが悪い感じがしてしまうものでもあります。

文章ではなく、思考にも、定型思考と呼ばざるをえないようなものがけっこうありますね。
たまたま昨日、違う場所、違うメンバーの集まりの中で、同じような考え方に出会い、少々考えてしまいました。

「最近の子どもは外で遊ばない。家の中でゲームばかりしている。だから体力もないし、他人とのコミュニケーションのとり方がわからないのだ」
という考え方があります。これはけっこうあまねく普及している考え方で、小学校の懇談会などではわりとポピュラーな話題でもあります。
「うちの子はゲームばっかりしてるんですよ」というのは、よく聞く嘆きであります。

こういう話題が出ますと、まず悪者(というか批判の対象)になるのは、「ゲームばかりしている子ども」本人であります。
最近の子どもはだらしない。あるいは自分勝手である。安楽なゲームにふけって外遊びをしないのはけしからん。
だいたいはそういう文脈で語られますね。

しかしこれ、子どもだけの問題なんでしょうか。
私はいつも違和感を覚えます。
そもそも、「外遊びをしない」というときの「外遊び」とは具体的に何をイメージしているのでしょうか。
話を聞いているとなんとなく浮かんでくるのは、「昭和30年代から40年代くらいのころに子どもだった人たちがしていた遊び」のようです。
その当時の社会の状態を思い返してみますと、まず第一に自動車の数が今より圧倒的に少なかったことが思い出されます。と、同時に道路が舗装されている箇所も少なかった。それはつまり、未舗装の、土がむきだしになった、自然のままの道が多かったということです。
ということは、道路の周りの状態も似たようなもので、空き地、草地などがそこここに見られたものです。当時の子どもたちは、「遊ぶ」といえば外に出て、これらの空き地を駆けまわり、草とたわむれ、ボールを投げたり蹴ったり、コマ回し、ベーゴマ、めんこ、鬼ごっこ、かくれんぼなどで走り回って遊んだものです。物が圧倒的に少なかったし、親も子どもにあれこれ買い与える経済的余裕もなく、また、そういうことをしようと思いつく余地もあまりなかったために、子どもといえば、金もないし物も持ってないというのが当たり前の状態でした。だからこそ、遊ぶためにさまざまな工夫をしたのです。
不便や不自由を感じるとなんとかしようと思うのがヒトという生き物なんですね。

そうするしかなかったからそうしてきた、というのが昔の子どもでした。
本心からそういう状態が望ましい、楽しかった、と思っている人が大多数であったなら、その後のさまざまな技術の発展や、おもちゃの開発はなかったはずです。
自分たちはいろいろ工夫したけれども、最初からそういうものがあったらどんなによかっただろう、と思っていたからこそ、かつての子どもが大人になったときにいろいろなものを創りだしたのではないですか?
今の子どもは目の前にそれがあるから、それを享受しているだけで、あるのに使うなというのは矛盾してますわね。私から見たらそれは、大人から子どもへの無意識の嫉妬に思えます。

さらに問題なのは。
「むかしは外を走り回って遊んだもんだよ」と郷愁にかられて語るのはいいんですが、「それにひきかえ、今の子どもは」というのはどう考えてもおかしいです。
なぜなら、環境が激変しているから。
未舗装の道は、地方にはまだ散見されるものの、住宅地ではまず見かけなくなりました。未舗装で放置すると苦情が出るからでしょう。舗装された道路では自動車が疾走しています。
となれば、「道路で遊ばない」という禁止事項ができるのも当然でしょう。
近頃では歩道を歩いていたって、ぼんやりした高齢者や、うっかりしたおじさんおばさん、考えなしの若者などの運転する車が突っ込んでくる時代です。おちおち道も歩いていられません。遊ぶなんてもってのほかでしょう。
でも公園があるじゃないか、と思うでしょう。
確かにこぎれいな公園は設けられているものの、これが信じられないくらい規制が多いのです。
ボール遊びをするな、というのは定番。ときには「近隣の迷惑になるので静かに遊んでください」なんてこともいう。芝生に入るな、なんていうのもありますね。遊具を置けば置いたで、「あてがいぶちの遊具はいかがなものか」と言ってみたり、事故が起きようものなら大急ぎで撤去しなくてはなりません。その結果、な~んにもない空間が残るのですが、ここで球技(サッカーや野球など)をすることはできないのです。そんな使えない、魅力のない公園がたくさんあるんですね。もちろんそんな公園だって子どもは遊びます。それこそ工夫していろんな遊びをしていますよ。ただ、今の大人が子どもだったころのような遊び方はしていない(できない)というだけのことなのです。

ゲームも、何かといえば目の敵にされますね。
しかし、私が見た限りでは、「ゲーム」と十把一絡げに表現する人はたいてい、ご自分がその手のゲームをしないようです。
自分はしない(できない)から、実態がわからない。ただ評判を聞いたり、ゲームに没頭している子どもの様子を傍から見て、なんだかやけに熱中しているようだ、と思うのです。
ゲームの内容は日々進化しています。出始めの頃のような単純なものばかりではないし、殺伐たる内容のものばかりでもありません。
確かに悪影響もありますが、実態をよく知りもしないでただ単純に「ゲームをしているからだめだ」と決めつけるあたりが、定型思考に陥っているよな、と思うのです。

私がよく思うのは、かつては「本を読むこと」だってあまりいい顔されなかった時代があったのにな、ということです。漫画は未だに敵視する人もいますが、たぶんそれもまた実態を知らないでイメージだけで判断している、もしくは単に自分の嗜好にあわないというだけのことかと思います。
他人とのコミュニケーションという点で見れば、読書だって基本的には一人でするものでしょう。感想を語り合うというのは意外と難しいものなんです。本を読むのは一人で没頭していてもよくて、ゲームを一人でやるのはいけない、というのはどういう根拠なんですかね。

つまり、「ゲーム」そのものが悪いとか、「今の子ども」が駄目だということではないということなんです。
遊ぶ場所も時間も奪っておいて、そのくせ「今の子どもは外で遊ばないからだめだ」というのはあまりにも身勝手な意見ではないでしょうか。

昔のように親が放置して遊ばせておく場所がなくなって、今では親がそれなりの施設に連れて行くことで、体を使った遊びをさせる、というふうになってきました。
これがどうもめんどくさいらしいんですねえ。

小学校の懇談会で「うちの子はゲームばっかりしてる」という嘆きが出た時、あるお母さんがひとつの施設の名前をあげ、「ここだと思い切り遊ばせられますよ」と言ったのです。
ああ、それはいいわねえ、という雰囲気になったとき、「でも親がついてないといけないんですけどね」と付け加えたら、いきなり「え~~~~」という空気になりました(笑)
子どもが外で遊ばないこと、ゲームばっかりやってることは、なんとなく気に食わないことではあるが、じゃあ、体を使って遊ばせるのに自分も参加しなくてはならない、となると、一気にめんどくさくなってしまうようです。
そのあたりのみなさんの心理の変化が面白かったですねえ。

今の時代、外遊び(というか体を使った遊び)をさせようと思ったら、親がそれなりに環境を整えてやらなくてはなりません。だって、そうしなくては遊べないような社会を作ってきたのは大人なんですもんね。
でも、そこはめんどくさいから考えたくないし、やりたくない。
そういう時に出る定型思考が、「最近の子どもはゲームばっかりやってて、外遊びをしないのは由々しき事態である」という憂いのポーズなのです。


他にも、自分の結婚生活についての愚痴や不満は山ほどあるくせに、他人には決まり文句のように「結婚はしなきゃだめよ。したようがいいわよ」と勧めるとか。
子育てについての問題は山積しているにも関わらず「とにかく子どもは生まなきゃだめよ」と他人にプレッシャーをかけるとか。
そういうのを「常識」というのなら、一度その常識を真剣に問いなおした方がいいと思いますね。

「うちの子はなんにも言うことを聞いてくれない」と嘆く前に、自分が何をどう伝えようとしているのか親も真摯に反省するべきなんじゃないですかね。
定型思考で押し付けたって、通じるはずがないと思いますわ。