モザイク | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

「モザイク・ラセン」は萩尾望都の傑作。(言いたかっただけ)


改めて言うほどのことでもないのだが、世の中は実に様々な事象でできあがっている。
それがまるでモザイクのように、組合わさっているのだ。
人間の視力なんて実にミクロなもので、つい手近なところばかり拡大して見てしまう。
Twitterを眺めていれば、そこで展開される話題だけが重要な気がしてくるが、新聞に目を移せば、Twitterで論議されているようなことはどこにも出てこず、まったく違う話題が、それこそモザイクのように散りばめられている。
では、と新聞を読んでいると、それはそれで視野狭窄に陥ったりもする。特に偏向のきつい新聞だと、つい世の中全部がそういう傾向にあるんじゃないか、とすら思えてくる。
まあこれは、何紙か読み比べてみれば、一社の偏向に過ぎぬということはわかってくるが。
そういう意味ではネットの方が怖いかもしれぬ。
誰も検証しておらず、根拠も定かではないようなことですら、思いっきり断言されて拡散することがよくあるのだから。

たとえば私はこうやって、毎日にようにパソコンを立ち上げ、ネットの世界を彷徨し、さまざまな文章の断片を拾い読みしている。
友だちとの連絡にはメールを利用するし、Twitterでつぶやいたりもする。
ゲームはしないし、ネットで交友関係を構築するということはしないので、そこはちょっと世間からはずれているかもしれないが、まあ、けっこう使っている方だと思う。

でも、未だに強い抵抗を感じている人もたくさんいることも事実。
特に、子どもが絡んでくる事象の場合、電子機器は目の敵にされる。
そういえば、この間ちらっと見たテレビ番組で、乳幼児がおもちゃの使い方を習得する方法について検証しているものがあった。実際に人が目の前でおもちゃの使い方を見せるのと、ビデオ映像で見せる場合の比較だったのだが、映像で見せた場合、乳幼児はそれが現実のものだとは認識できないのだそうだ。映像は映像、現実は現実、と分けて受け取るらしい。
そのあたりは、まだ生物としてのなにかがあるのだろうと思わせる実験だったのだが。
ビデオに子守をさせることの是非、などもよく論争になる。授乳時に母親が携帯電話などに夢中になっていることの弊害であるとか、早々と携帯電話やスマホなどの電子機器をおもちゃとして与えることの是非など、子どもと電子機器との関わり方については議論がつきない。
親自身がすでにそういった電子機器に馴染んでいる場合は、どうしても子どももそれに触れる機会が多くなると思われる。そのことについて、古い年代(要するに自分が電子機器に馴染みのない世代)はかなり危機感を募らせているように思われる。
(これについても注釈が必要で、高齢者でも電子機器を使いこなそうとする層もあるので、一概には言えない)

私は、読み聞かせのボランティアをしているので、「本」というアナログな存在にも愛着を感じている。
そして、読み聞かせの会などの講座に参加することもあるのだが、そういった会は近年、高齢化が進んでいるらしい。どこへ行っても、けっこう年配の人が多いのだ。
小学校の図書ボランティアは基本的には保護者がなるのでさほど高齢化はしていないが、地域の読み聞かせサークルなどは、すでに子育てを卒業した世代が「孫に読んでやりたい」という気持ちで参加することも多いために、わりと年齢層が高くなりがちである。

そして、「本を読んでやりたい」と思うようなタイプの人と電子機器との相性は、どうもあまりよくないような気がするのだ。
何度かそういう人たちの口から「携帯なんて」とか「ゲームはねえ」という否定的な言葉を聞くことがあった。確かによろしくない部分もあるだろうが、話を聞く限りでは、そういう方々はご自分があまり電子機器と馴染みがないように思えるのだ。つまり、よく知らないで、単なるイメージ、もしくは、昔の携帯電話やゲームの様相のみで判断しているように思えてならない。

技術は日進月歩だし、これからの社会がコンピュータ抜きで成立するとも思えない。今の子どもたちは必ず、コンピュータが関わる世界で生きていかなくてはならないのだ。

敵を知り己を知れば百戦危うからず、という。
闇雲に警戒し、遠ざけるのは、あまり賢いやり方とも思えない。
携帯電話やゲーム機がよろしくない、というならば、もう少し情報を集めるとか、自分でもやってみるなどの根拠が欲しいところだ。その上で、これこれこういう使い方はよくない、と具体的に言ってもらえると信憑性も増えるのではないかと思う。



しかしまた、どんなことにも、「程度の問題」という壁が立ちふさがる。
子どもを褒めて育てるという方式にしたって、なんでもかんでも闇雲に褒めまくればいいのかといえばさにあらずであるし、叱るにも相手のタイプをきちんと見極めねばならない。
結局のところ、十把一絡げして、「褒めればよい」とか「叱る方がよい」などとマニュアル化することなどできないということだ。
人間の性質、体質、気質、障害の有無などは千差万別で、その千差万別に別の千差万別が組み合わさり、さらにそこに、環境だの時代の流れなどが絡んでくるから、すべてが唯一無二の組み合わせということになる。モザイクの極致だ。

ひとくちに「ゲームはだめ」と言うが、本だって、実のところ、いいものも悪いものも入り交じっているわけで、本さえ読んでいれば万事OKかというとそういうわけでもない。
本に親しめば心豊かな人間になる可能性もあるが、どこでどう歪むか、変な依存が生じないかなど、好ましくない方向へ向かう可能性だって否定できない。

何か一つのことを信じこむことができれば、とても幸せだし、気楽だし、平穏無事である。
でも、このモザイクな世の中は、ただひとつの概念だけで渡りきれるほど安穏な出来じゃあないのである。

経験も知識も少ない若者が乏しい経験から一つの信念にしがみつくのはまだわかるが、年を経てさまざまな体験を見聞きしてきたはずの者が、その体験の多さ故に、ある一つの信念に凝り固まってしまっているさまは、少々いただけないものがある。
歳を重ねるにつれて、さまざまに迷い、断言できなくなることのほうが、本当なのではないかと、迷いつつ思う。

まあ、断言しちゃったほうが楽なんだけどね。これはこうだ、と言い切るのは気持ちいいし、威厳すら持たせることができるから(笑)。