嵐のあと | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

静岡地方は昼頃からとんでもない嵐に見舞われました。
轟く雷鳴、叩きつけるような豪雨。
川は一気に増水し、今にもあふれそう。
夜8時ごろにはおさまって、今は静かになりましたけど、一時はどうなるかと不安になりましたよ。

夕方、息子と二人でいつも行く回転寿司へ出かけたんですが、生きた心地がしませんでした。まあ、そんな時に出ていくのもどうかと思いますが(笑)。
稲妻が光ると、空が不気味な赤紫色に光るんですよ。山も不穏な暗雲に覆われていますしね。ほんと、怖かったです。

ここのところ、こんなメイ・ストームが続いてますねえ。
どうなっちゃったのかなあ地球。大丈夫でしょうか。

天気予報で午後から天気が崩れると言っていたので、午前中にブログを書いてしまおうと思っていました。
実際、途中まで書きかけたんですが、デリートしようとしたときになにか手違いがあったらしく、違うページに飛んでしまいました。そういう時に限って下書き保存してないもんなんです。だってまだ書いて推敲してる途中だったから。
何度やってもショックですよねえ。きれいさっぱり消えてしまうって。
でも前にも書いたように、これはこの記事はやめとけっていうご宣託だと思って、いったん中断しました。
ちなみに何を書いていたかというと、徹底的な自虐ネタ。
子育てや教育に関していつも偉そうなことを言ってるけど、現実の子育てでは♪道に迷っているばかり~♪ってなことをつらつらと愚痴ろうとしていました。

子どもが学校で落ち込むようなことがあったりすると、つい気持ちが同調してしまって一緒に落ち込んでしまいます。
友達が意地悪をする、先生に怒られた、そんな些細なことでも、息子にとっては全世界を占める大問題です。その話を聞いているといつしか、同じような気持ちになってしまうんですけど、でも現実には私は息子に取って代わるわけにはいかず、ただ見ていることしかできません。気持ちだけはモヤモヤと落ち込んで嫌な気分になってしまうのがけっこう辛いんですわね。
例えばこの先、もっと深刻な事態になって、息子が「学校へ行きたくない」と言い出したらどうすればいいんだろうか、とか。
いじめられていたら、とか、逆にいじめっこの方になっていたら、どうしたらいいんだろう、ということを今更のように我が身に引きつけて考えました。
よそさまのことなら、客観的な物の見方もできましょう。
「無理して行かせなくてもいいんじゃない?」てなことだって言えるでしょう。
でもいざ、実際に自分の子がそう言い出したとしたら。
果たして私は日頃自分が言っているような態度をとることができるんだろうか。

「言うだけ番長」なんだよなあ、私は。
と忸怩たる思いでいました。

たまたまコンビニでちらっと立ち読みした本の中に、ドキッとすることが書いてありました。
「いいひと」はなぜ心を病むのか、という本だったのですが、その中で、「いいひとというのは逸脱を恐れる」と書いてあったのです。
ああそうだ、とすとんと腑に落ちるものがありました。
逸脱が怖い。世間並みから落ちこぼれることが、外れていくことが、どうしようもなく怖いのです。
私自身が登校拒否という方法を取れなかったのも、ひとえに「そんな目立つ行動をとって、世間から逸脱したくない」という思いによるものでした。
家にいるのも、学校にいるのもそれなりに辛かったのですが、それ以上に「学校へ行かない」という目立つ行動を取ることで自分の意志を明確にしてしまい、その結果、それまで乗っていた(と思っている)レールから外れてしまうことのほうがよほど怖かったのです。

自分の子供が登校拒否になったらどうしよう、と心配するのも、結局のところは「逸脱を恐れている」だけなのではないか、と思いました。
いわゆる「人並み」の行動をしていれば、その本心は顕になることはありません。
学校や先生に対してどう思っているか、という本心が、学校へ行かないという手段を取ることによって他人に知られてしまうのです。
子どもの問題は、そのまま親の問題でもあります。

そうか、私は子供のことを心配しているふりをして、要するに自分のことを心配していたのだな、と思い至ったのであります。

まったく「言うだけ番長」ですわなあ。情けないです。


水彩画講座の最終課題で、猫を描いています。写真を見て描いているんですけど、先日描いた下絵は、どうにもデッサンが狂っていました。
どこがどう狂っているのか判然としなかったのですが、今日、ちょっと心を落ち着けて集中して描いてみました。
真剣にじっくり写真を見て書くと、思ったよりきちんと描けたんですね。
それでわかりました。前に下絵を描いたとき、私は見ているようでちゃんと見てなかったのです。先入観や思い込み、「まあこんなもんだろう」と高をくくった気持ち、そんな態度で描いていたために、全体にどことなくバランスが悪い絵になっていたのです。

子どもを見る態度も同じなのかも、と思いました。
生まれた時から見ていて、四六時中一緒にいると、子どものことはなんでもわかっているような気になります。
たいていのことはそれですんでしまうから、またその感覚が強化されていってしまうのですが、時にそれではダメな時もあるのかもしれません。
本気で、真剣に、ひとつひとつをゆるがせにしないで見つめなくてはならない時もあるのです。
子どもがなにかしら問題を起こした時こそ、「そのとき」なんでしょうね。
「そのとき」が来たら、怖がってないで向き合わないといけないんだな、と改めて思いました。

今日の息子は、特に怒られることもなく、友達とのトラブルもなかったようで、機嫌よく帰宅しました。そういう時は私もほっとして、余裕を持って対応できます。
まったくもって、子どもの機嫌に一喜一憂してしまってるなあ。情けない限りです。


突然襲ってくる嵐のように、子育てもいつ何が起きるかわからないものです。
嵐の最中は、とにかく全力でそれに立ち向かうか、やり過ごすしかないわけで、なんにせよ大変なことではあります。(>_<)