絵画とはなんぞや | 10月の蝉

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「現代フランス・ナイーブ派絵画展」


学校の敷地内にある美術館で開催されているということで、若干躊躇していた絵画展でありましたが、昨日のあまりの好天に誘われて出かけて参りました。

85点の絵画と、2点のタピストリー。タピストリーはルソーの「ジャングル」という作品の下絵の複製です。
これらの作品をガラス越しに鑑賞したんですが、こうやってまとめて鑑賞すると、なんとも言えない不思議な心持ちがしてきました。

絵ってなんだろうなと思ったんですよね。
私たちが肉眼で見ている3次元の世界を、2次元の平面に描き写すのですが、その時点で一つ次元が減っています。
「奥行き」とか「空間」という要素が抜け落ちるわけです。
たとえば、両手を前後にずらして目の前に出した時、視覚情報としては、片方の手が「向こう側にある」と認知します。
これを平面に描こうとするとき、「そもそも手の大きさはだいたい同じである」という知識で描こうとすると、描かれた手の大きさは同じになりますが、それだとどちらが前にあるかが判然としません。
絵画の技術はここで、「向こう側にある手を若干小さめに描く」という方法を教えますね。そうやって描くことで奥行きを感じさせるという手法なのです。
遠近法という方法は、「遠くのものは小さく、ややぼかして描く。手前のものは大きくくっきり描く」という方法ですが、これはつまり、人間の目の錯覚を利用しているということになります。

錯覚、もしくは錯視。人間の視覚はこの現象から逃れることはできません。
だから、白色絵の具が点々と紙の上に乗せられていると、その部分が「光っている」というふうに認知してしまいます。
斜めの線が画面上部で一点に集約されている構図を見ると、そこに奥行きを感じてしまう。
3次元の物体を2次元で表現するために、人間はいろんな技術や手法を開発してきました。そういうことを教えるのが美術学校というわけです。

ナイーブ派はそういった技法にとらわれることなく、「見たまま」を描くとされています。でも実際には必ずしも「見たまま」が描いてあるようには見えなかったんです。
とても緻密で綺麗な絵ばかりだったのですが、どういうわけか「絵画を観る喜び」を感じることが少なかったのが不思議でした。
きれいだなあ、細かいなあとは思ったんですけど、たとえば私の好きな古典絵画や印象派の絵を観た時のような、心をわしづかみされるような感動を受けることができませんでした。

「イラストみたいだ」と思った時に、じゃあ、イラストと絵画は何が違うんだ、と思ったんですね。
イラストや挿絵と、私がいつも感動してみている絵画の違いはどこにあるのか。

さらには、写真と絵画の違いはなんだろう、ということも考えました。
よく精密に描かれた風景画などを指して「まるで写真みたい」と評することがありますよね。ああいうときに思うのは、「なぜ写真ではなく、絵画(手で描く)なんだろう」ということなのです。
カメラで撮影したもののように、細部に至るまで正確に描写された絵と、現像された写真は何が違うのか。
どちらも「3次元から2次元への移し替え」であることは同じです。
そこに画家の主観が入り込むことで、筆遣いや色使いに何がしかの思いがこもるのが絵画だとすれば、写真のとおりに描くことにはどういう意図があるのでしょうか。

このあたりがいつもモヤモヤするところなんですよねえ。

ナイーブ派の絵は、題材に個性が感じられるものの、木や人の描き方が驚くほど共通しています。言い方は悪いですけど「子どもの絵」もしくは「アニメ的」な描き方のように見えるのです。空も雲もパターンで描かれていて、色合いはとても美しいけれども、決して現実の引き写しではないんですね。遠近感も微妙に狂っていることが多く、大きさのバランスもおかしいものがたくさんあります。
写実的のようでいて、類型的な描き方であり、イラスト的な描き方であるように感じました。

それが悪い、ということではないんですけど、どうにも引っかかるのです。
この「引っかかり」の原因がわからなくてモヤモヤするんだと思います。
私が感動するツボからずれているからなのかなあ。
日本だと山下清画伯の絵もナイーブ派だと言われているそうですが、ああいった稚気溢れる絵柄を、どう受け止めたらいいのか、私の中にものさしができてないのかもしれません。

幻想的で個性的、と受け止めるにはあまりにも素朴な作品が多かった気がします。そこがナイーブ派のナイーブ派たる所以なのでしょうかね。

私が住んでいるところは非常に自然が豊かなところで、ちょっと目を上げれば山々が重なり、その向こうから雲がわきいでるさまを見ることができます。
3D映像なんて目じゃないくらいの、リアル立体映像の連続なのです。
そういう風景を見るたびに、「これを絵にするにはどうしたらいいんだろう」と絶望にも似た気持ちにおそわれます。
見えているものをそのまま描いたら、絶対にこの立体感は出ないのです。立体感を感じさせる技法は、平面上で見たら、たとえばちょっと塗られた意外な色だったり、筆先のちょっとした勢いだったりします。それが、離れて見た時に見事な立体感を感じさせてくれます。
絵画展で、絵を近くから見たときに受ける衝撃というのは、
「なぜ、こういうふうに描くことで、離れてみた時にあんなふうに見えてしまうんだろう」
という自分の視覚に対する驚きでもあります。


どうして人は絵を描くんでしょうね。
どうして私は絵を観るのが好きで、感動した風景を絵にしたいと願うのでしょう。
私が感動する風景、光景、情景は、昨日観たナイーブ派の絵の中にはなかったということなんでしょうか。
キュビズムやフォービズムの絵も同じなんですけど、それでも「なんでこんなふうに描きたいと思ったんだろう」という思いがわき起こります。
抽象画も、見ると混乱するんですけど、それでもそこに画家の衝動のようなものを感じます。
ナイーブ派の衝動はなんなんだろうなあ。

ナイーブ派の絵に素直に感動できない自分が、なんだかとても気になりました。