まよまよ | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

いたずらに年だけくって、私にはわからないことが多すぎる。

いろんなことが、ほんとのとこどうなのか、どうしてなのか、どうすればいいのか、何が正しいのか、何が間違ってるのか、そもそも正しいだの間違ってるだのなんてことがあるのかどうか、とにかくわからないことだらけだ。


若い時もわかってなかったけど、年を取ったからといってわかるわけもなく、むしろ経験や情報や知識が増えた分、よけい判断しにくくなっている。


ふだんは、「まーいっかー」とあえて上っ面だけで流していく。そうしないと、いちいち引っかかって身動きとれなくなるし、なんにもできなくなるから。


それでも、指先にできたささくれのように、何かの時にピッと引っかかって「いて!」ってなる。中途半端に剥けてしまったささくれが気になって仕方なくてついついいじってしまうように、考えてもわかるはずのないことを、気がつけば「あーでもないこーでもない」とこねくりまわしている。


考えたって答えは出ないし、私に何かできるはずもないんだけどさあ。


今日のテーマ、「今日の気がかり」にすればよかったかな。でもまとまって書けるほど考えが固まってるわけでもないし。

洗濯槽を漂う糸ゴミのように、断片的な気がかりがひらひらと頭の中で泳いでいるだけ。


たぶん今の私は、決定的に当事者になれないのだと思う。

どんなことについても、当事者じゃない。

震災被害、ワーキングマザー問題、セクシャルマイノリティ問題、ジェンダー問題、発達障害問題、格差問題、教育問題、子育て問題、精神疾患問題、身体的疾病問題、ありとあらゆることで、私は問題の当事者になれない。

もちろん、新聞やネットでそれらに関連する記事を読めばいろんなことを考えたりする。憤ったり悲しんだりもする。でも煎じ詰めれば、今現在の私の問題じゃあない。


しんとした居間でひとりうろうろしていると、実にいろんなことを考える。これ、ブログに書こうかしらと思うことも多々ある。実際書くこともあるけど。

でも、ふと気づいてしまうのだ。

それってあたしが言うことちゃうやん、って。

あたしが何をどう言おうと何をどう感じようと、そんなもんなんの意味もないで、って。


世の中にあるさまざまな制度や現象や慣習について怒りを感じたとしても、別にそれがなくなるわけでもないし、改善されるわけでもない。

むかし、私より10年くらい上の世代の人達が、世間とか社会とか体制とかいうものに激しく抵抗してた時代があった。そのころは世間や社会や体制側が堅固な壁のようなものだったから、抵抗することにも意味や意義があったんだと思う。


でもさー。その結果なにか変わったんだろうか、と思う。そりゃ細部は変化していっただろうけど、大元の感覚はあんまり変わってない気もする。


行政のやることや、大企業と呼ばれる会社がやることが、いつの時でも非難の的になる。許せない、とんでもない、って、まるでそうじゃない行政組織や大企業が存在するかのように怒ってるけど、んなもん昔からずっとそうだったんじゃないのか。

政府とか国とか行政機関なんてもんは、いちいち個人の事情なんか斟酌しないんだよ。こっちから個別に事情を訴えて初めて、ちょっと視線を向けてみようか?くらいのスタンスだよ。

警察が市民の安全を守る?警察は何か事件が起きてからそれを解決する組織だよ。事前の防犯なんて、お題目にすぎない。刑法に触れない事件はたいてい「民事不介入の原則」でスルーされるもんだ。それが警察組織の本質なんじゃないの?

大企業はあくどいとかいうけど、中小企業だってあくどいとこはあくどいじゃん。

「うちみたいな中小企業は綺麗事言ってたら潰れちゃうんだよ」という大義名分があればどんな非道なことだってやるもんだ。

そして、大企業だって中小企業だって、実際にそれを運用してるのは、一人ひとりの「市民」ってやつで。みんな自分の首が大事なんだから、それを守るためには多少後ろめたいことだってやっちゃうさ。

内部告発なんて、他人事だから褒め称えるんであって、もし自分の会社で誰かがそんなことしたら絶対白い目で見るよ。現にそうなってんじゃん。



・・・・・・・というようなことをつらつら考えたところでだねえ。

私自身が今まさにこれらのことを自分の問題として抱えているというわけではないのだ。

例の震災ではまったく物的被害は受けなかったし、ワーキングマザーでもない。ジェンダー問題で現実に本気で悩んだこともないし、子供のことで特に問題もない。自分自身も、若干精神が不安定だということを除けばなんら病的兆候もない。夫はとりあえず正規社員で働いているし、会社もわりとまとも。刑事事件にも巻き込まれてないし、ほんとに何も問題がないのだ。


でもこれは、単に運が良かっただけの話。たまたまこういう恵まれた境遇にいられるというだけで、これは私の手柄でもなんでもない。


でもこういう恵まれた境遇にいるということで、すべての問題に関して、そのどれにも当事者たりえないというのは、実にモヤモヤするものである。

「結局他人事だからさあ、お気楽なことが言えるんだよ」というツッコミを想定せずにはいられないから。


どうせそういうツッコミがくるなら、逆に開き直って「まあ、いっかー」と受け流してしまうしかないのかな。

あたしがあれこれ考えたところで、社会が変わるはずもなく、あいも変わらず「こういうことはよくないと思う」とか「こういうところを変えていかなくちゃいけないんですよね」と言い続けて時が流れていくんだろうし。


ほんとに、わからないことがたくさんあって、迷ってばかりですわ。しょぼん