フェンス | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

 とある屋上にて。飛び降り自殺をしようとしている女がひとり。そこへ、男がひとりやってくる。彼もまたそこから飛び降りようとしていたのだが、先客の女がいるために、なかなか飛び降りることができない。続いて、もう一人、女がやってくる。やはり飛び降りるために。彼女には、一人お供がいた。自殺を止めようとしている男。4人でもめているところへ、中年の男があらわれ、4人には目もくれずに飛び降りようとする。あわてて止める4人。そこから5人の人間の話が始まる。

 これは、私が数年前に書いた「フェンス」という芝居の始まりのところです。

 このあと、なかなか死のうとしない3人(最初の女、2番目の女、中年の男)にいらだった男が、「だったら僕が殺してやる」と言います。どうせ死ぬつもりだったんだから、飛び降りようと、殺されようと同じ事じゃないか、と。

 それに対し、最初の女が「全然違う」と反論します。自分で死ぬのと、人に殺されるのでは全然違う、と。

 自分が書いた脚本ですから、どれも自分の頭の中にある考えだとは思うのですが、書いている時、私は本気で「どうせ死ぬなら自殺でも他殺でも同じだ」と思っていました。女に反論させたのは、良識あるいは常識を意識したから。そのため、「どう」全然違うのかはセリフにできませんでした。いまだに納得できる理由が見つかっていません。

 もちろん、「否応なしに他人に命を奪われること」の不条理さはわかります。死ぬ気なんてこれっぽっちもない人なら、当然許せない行為でしょう。では、自殺しようとしている人は? すくなくとも表面上は自分で自分の命を断とうとしているわけですから、あとは、「誰が」その行為を為すか、という問題だけです。

 ただ、自殺の場合、心の奥を探っていくと、やはり「死にたくない」という思いに行き着くことがほとんどなのでしょう。「死にたい」と「死にたくない」の間を行きつ戻りつする権利を、他人によって一方的に取り上げられるのはいやだ、とこういうことなのでしょうか。

 矢口敦子さんという人の書いた「償い」という小説があります。幻冬舎から文庫で出ています。その中で、主人公に密接に関わる男の子がいうのです。「不幸な人は死んだほうがいいんだ」と。死んだらもう悲しまなくてすむから、というのです。

 まだ一度しか読んでいないので、うまくこなれていないのですが、その少年の考え方が、とてもなじみ深いもののように思えたのです。さらには、なぜ、その考え方が「いけない」とされるのか、うまく飲み込めないのです。

 その少年は、結局のところ、自分の存在を認めることができないために、そういった考えになっていったようなのですが、とすると、私もそうなのでしょうか。

 「フェンス」では、最後にみんな自殺をやめて帰っていきます。「とりあえず、今日はやめよう」といって。

 私には、登場人物をはっきりくっきり立ち直らせることはできなかった。テレビのドラマなんかではよくありがちですが、自分を取り巻く状況が何も変わらない中で、マイナスからプラスへ転換させることはあまりにも嘘くさくてできなかった。せめて、今日だけ、なんとかしのいでみるか、と言わせるのが精いっぱいでした。「せめて今日だけ」が、いくつも積み重なっていけばいい、と、細い細い希望の光を投げて終わりにしました。

 登場人物たちが話をしていく中で、「こんな自分にもできることがあるんだ」と思って、お互いに支えあおうとするシーンも書きました。「償い」の中でも「お前は生きていていいんだ。生きていてくれないと俺が悲しい」というセリフがあります。

 そういえば「永遠の仔」(天童荒太著)にも、ラストで、同じようなセリフがありました。

 人は、人に認めてもらわないと生きていけないものなんですね。どれだけ他の人に必要とされたいのか、その願いのあまりの切実さに胸が痛くなります。ひとごとのようにいってますが、もちろん私だってそう思ってます。

 で、ここであの質問が戻ってきます。「不幸な人は死んだほうがいいと思わない?だって死んでしまえばもう悲しまなくてすむんだから」

 そうなんでしょうか。70%の私が、「そうだね」と同意しています。