チャールズ・ディケンズ(1812-1870)

 

私は20代の頃ディケンズの小説に熱中した時期がありました。イギリスの下級官吏の息子として生まれ、貧しい生活の中、12歳のときに家が破産し、ディケンズも靴墨工場に働きにでなければならなかったという境遇にシンパシーを感じるのですが、何よりも19世紀のイギリス人の逞しさが爽やかに感じられるのです。

 

独学で文章力を身につけ、新聞記者となり、24歳で作家になり以降は文筆を生業とし、国民的な大作家にまで成り上がっていくそのダイナミックなパワーには感嘆せざるを得ません。その時代が求め人々が渇望するものを見抜きそれをしっかりと小説の世界に反映させる感受性は見事としか言いようがありません。

 

ディケンズから約50年ほど遅れてシドニー・ブランシャード・フラワー(Sydney Blanshard Flower: 1867-1943)が1867年9月18日にイギリスのランカシャー州リバプール(当時)で生まれています。ドクター・フラワー催眠誘導法を考案したシドニー・フラワーです。

 

二人が同じ空気を吸った時間は3年ほどしかありませんでしたが、シドニー・フラワーもまたシンパシーを感じさせる家庭環境に生まれています。父親ジョン・ジェラード・フラワーが46歳、母親イザベラ・ダットンが27歳の時の息子として生まれています。2歳上に双子の兄がいたようです。父親はシドニー・フラワーが9歳の時にロンドンで急死し、14歳の頃はヨークシャー州のマリゲートに借家住まいをしていました。

 

 

シドニー・B・フラワー(1867-1943)

 

そして1884年、16歳の時にカナダのノバスコシャ州のハリファックスへ単身で移住しています。そこでの仕事は不明ですが、24歳の時にはマニトバ州で農夫として働いています。その2年後の26歳の頃に転職し、ウィニペグ・モーニング・フリー・プレス社のスポーツ関連の新聞記者となったようです。このあたりもディケンズとかぶります。28歳の時にトロントへ移り、その後すぐにアメリカのシカゴへ移住します。

 

トロントの記者時代に現地のホッケーチームで活躍していた医師のハーバート・A・パーキン(Herbert A. Parkyn:1869 ~ 1927)と知り合ったようです。パーキンはまた催眠療法にも関心を持っていました。

 

パーキンは1895年にミネソタ大学に移りアメリカの大学で2番目のホッケー部を作りコーチも兼任していたことが知られています。その後すぐにパーキンはシカゴに移って医療と心理療法のクリニックを開業しています。

 

フラワーは1896年に"Hypnotism Up To Date"を出版していますが、この本はパーキンへのインタビューで構成されており、パーキン自身とパーキンが設立したChicago School of Psychologyの紹介と宣伝のために書かれたものと考えられます。

 

"Hypnotism Up To Date"の表紙とパーキン医師を称賛しているその本の序文

 

 

ハーバート・A・パーキン

 

しばらくフラワーはパーキンのマネージャのごとく活動しますが、その後は催眠、メスメリズム、暗示、自己啓発、サイキック関連の数多くの雑誌の発行と郵便による通信教育、また金鉱採掘会社や石油採掘会社の株式売買などにも手を染めます。

 

ただしパーキンから学んだと思われる催眠療法の知識は確かなものがあり、フラワーの作成した催眠療法の通信教育教材は現在に流通しているものと比べても遜色がありません。

 

1898年頃から時折、MD(医師)、LL.D.(法学博士)などと自称するようになります。32歳で10歳年下のハリエット・マッカラーと結婚しますが、2年後に離婚しています。理由はフラワーが家庭と妻を顧みないためでした。

 

34歳のと きにシカゴ・トリビューン紙のストーリーコンテストに応募し2等賞に入選しています。これもまたディケンズを彷彿とさせます。確かにシドニー・フラワーには文才があったのでしょうが、残念ながらその才能を開花させることはできなかったようです。

 

36歳では投資話による詐欺の嫌疑で取り調べを受けています。37歳ではニューヨークで長期療養所の会社を設立するも、雑誌の不正注文が発覚して、コロラド州へ移動。その後、金鉱採掘権の売買に関与し、金鉱採掘関連の雑誌社を設立して雑誌を発刊しています。

 

41歳のときにはネヴァダ州で取り調べを受けており、その嫌疑で翌年シカゴで逮捕されますが、43歳のときに嫌疑が晴れて自由の身となりました。

 

その後カリフォルニア州ハヴィラで心も体も魂も清潔な人の集う「ハヴィラ・ヴィレッジ・プロジェクト」を始めています。44歳のときにイギリスに一時帰国していますが、これは母親の葬儀のためと思われます。49歳のときにはシカゴに居住し、翌年50歳のときにシカゴで陸軍の医療隊に入隊しています。

 

1920年1月にシドニー・フラワー軍曹(50歳)はエセル・G・ストール(24歳)と再婚。同年4月に除隊となっています。52歳のころからシカゴを拠点としてまた雑誌や本の出版を再開。53歳のときに長男のプレストン・フラワー(1921-)が誕生。53歳と54歳のときにはヤギの性腺を人体へ移植手術をして性力を取り戻すという偽医者ブリンクリー(Dr. Brinkley)の広告本を出版しています。

 

57歳まで活発に雑誌と書籍の発刊を続けました。その後は目立った活動の記録はありません。63歳のときにはエセルと離婚しており、その後72歳でオレゴン州ダグラスに移転。1943年4月26日にダグラスのローズバーグで75年の生涯を終えています。

 

シドニー・フラワーの人生は19世紀の後半から20世紀前半の躍動の時代にイギリス、カナダ、アメリカを舞台に自由奔放に生きた男の人生だと思います。家族の幸せには恵まれませんでしたが、自分の目の前に現れてくることに必死にしがみついてはがむしゃらに進んでいったバイタリティ―溢れる人生のような気がします。

 

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なお、通称「ドクター・フラワー誘導法」と呼ばれる催眠誘導法はシドニー・フラワーが1901年に作った通信教育の催眠教材 の中にあります。神経質な女性を催眠状態へ誘導するためにシドニー・フラワーが考案したこの方法は、以下の手順で行います。

 

「私の言うとおりにやってください。私が数を大声で数えることで催眠へ入れていきますよ。私が数を数えている間は目を開けたままにしてください。数え終えると目を閉じましょう。さあ、では目を閉じてください。私が数を数えだすまでは目を閉じたままでいましょう。そして私が「1(いち)」と数えたら1秒間目を開けて私を見てからまた目を閉じましょう。「2(に)」と数えたら1秒間目を開けて私を見てからまた目を閉じましょう。というふうに20まで進めていきます。次に同じように1から20まで数を数えていきますが数字を数えたら5秒間目を開けて私を見てか ら目を閉じてください。20まで数え終えたら、また1から20まで数字をかぞえていきますが、今度は数字を数えたら10秒間目を開けて私を見てから目を閉じてください。20まで数え終えたら、また1から20まで数を数えていきますが、今度は数を数えたら15秒間目を開けて私を見てから目を閉じてください。」

 

これが元々のフラワー誘導法です。シドニー・フラワーによると3順以上数えることはまずなく、ほとんどのクライアントがそれ以前に催眠に入ってしまうとのことです。

 

(上記のシドニー・フラワーの経歴はMarc Demarest氏の研究によるものです。)