1962年、本田技研工業により建設された鈴鹿サーキットで翌年第1回日本グランプリが開催されました。日本においては自動車レースの黎明期で、参加者はレースカーそのものに乗って鈴鹿まで国道を走ったような時代です。式場荘吉のポルシェを生沢徹の運転する日産スカイラインが1周だけリードして「スカイライン伝説」なるものが生まれました。しかし真相はアマチュア女性が運転するオープンカーが、シケインでもたついている隙にスカイラインがリードを奪ったということのようです。

 資産家の息子である式場のポルシェは自前で用意されたものですが、元々西洋で貴族のスポーツと称された自動車レース、レーサーには豊かな家庭の子弟が多かったのも事実です。後に鈴鹿で練習走行中に命を落とした浮谷東次郎もその一人です。浮谷はコースに突然侵入した人を救うため、自らの命と引き換えにハンドルを切り帰らぬ人となりました。当時の日本グランプリと鈴鹿サーキットは、モータリゼーションの隆盛期を迎えた日本の未来への希望と青春の夢が炸裂する舞台と言えるのではないかと思います。
 60年代後半、父の車で湘南をドライブしていると、海岸線にひときわ威容を放つホテルがパシフィックパーク茅ヶ崎でした。俳優の上原謙さんとその長男である加山雄三さんが共同オーナーで、ボーリング場やプールを備える高級リゾートホテルとして一躍脚光を浴びました。

 しかし70年代にはいって運営会社が倒産、竣工後20年余りがたった80年代後半に廃業することになりました。加山雄三さんはこの頃スキー場での事故などの逆境が続き、70年代l後半に若大将ブームが再来するまでの数年間、じっと辛抱の時期が続きました。すでに建物は取り壊されましたが、湘南海岸にあの建物が近づいて来る光景は、今だに記憶に新しくもあります。
浮谷東次郎(うきや とうじろう、1942年7月16日 - 1965年8月21日)
 
 福澤幸雄と同じく、若くしてその生涯を閉じた天才レーシング・ドライバーです。裸足でペダルを踏むなどの大胆な面と、人を気遣う優しさと繊細さを持ち合わせた彼の個性は、今だにファンを魅了してやみません。鈴鹿サーキットで練習走行中、コースに突然侵入した人を救うため、自らの命と引き換えにハンドルを切り、23歳の若さで帰らぬ人となりました。

 10年後に一家の大黒柱だった父上が亡くなり、その後お母さんの和栄さんとお姉さんの朝江さんは深い信仰に帰依するようになります。1979年に東次郎のメモリアルルームの2階に礼拝堂が建設されました。 その著書は、東次郎の青春を生々しく伝えてくれる名著です。私にとって梅棹エリオの「熱気球イカロス5号」(中央公論社)と共に、清々しい青春の息吹を感じさせてくれました。



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