1962年、本田技研工業により建設された鈴鹿サーキットで翌年第1回日本グランプリが開催されました。日本においては自動車レースの黎明期で、参加者はレースカーそのものに乗って鈴鹿まで国道を走ったような時代です。式場荘吉のポルシェを生沢徹の運転する日産スカイラインが1周だけリードして「スカイライン伝説」なるものが生まれました。しかし真相はアマチュア女性が運転するオープンカーが、シケインでもたついている隙にスカイラインがリードを奪ったということのようです。

 資産家の息子である式場のポルシェは自前で用意されたものですが、元々西洋で貴族のスポーツと称された自動車レース、レーサーには豊かな家庭の子弟が多かったのも事実です。後に鈴鹿で練習走行中に命を落とした浮谷東次郎もその一人です。浮谷はコースに突然侵入した人を救うため、自らの命と引き換えにハンドルを切り帰らぬ人となりました。当時の日本グランプリと鈴鹿サーキットは、モータリゼーションの隆盛期を迎えた日本の未来への希望と青春の夢が炸裂する舞台と言えるのではないかと思います。