まずは、「Cenacolo Vinciano」。あの名画、「最後の晩餐」との対面であります。
ネットで予約ができるのだそうですが、直前のことだったので空きがなく、つてをたどってチケットを入手していただきました。(ありがとうございます)
フラッシュ使用・ビデオ撮影禁止、二重三重の扉で温度管理徹底。
観覧滞在時間15分間。
人類の至宝を厳重に維持管理しているのでした。
フラッシュをたかなければ、静止画撮影はOK。
なので、どーーん!

近寄って、どーん!!

でかいぞ、前の男! 2mは超えている。右隣の女性が176cmくらいはあるので。
そんなことは、どうでもいい!
もっかい、思い切り引いて、椅子に座った目線から、
どーーーん!!!

最近の修復により、想像以上に画面は明るく、立体感がよみがえっています。
遠近法を駆使しして、壁を突き抜けた空間に、イエスの時代が繋がっているかのような、この臨場感。
これはまさに、超時空絵画!!
美術史的、宗教学的、哲学的に、いろいろとこの絵の解釈はあるのでしょう。
「ダビンチ・コード」のような、野心的な謎解きもありますし。
そういうものを知らず、門外漢として虚心坦懐にこの絵を眺めると、まず響くのは「イエスの孤独」です。
十二使徒などといっても、所詮は他人。この段階では単なる弟子。人間です。
「この中に一人、裏切り者がいる...」
そういわれて、驚き、恐れ、問い詰める、そして惑うーー。
小生には、キリスト教団としての結束など、この絵のどこにも見えないのです。
神の子としてのイエスの孤独、どこまでも付きまとう人間の「性」。
その谷間が、ヨハネとイエスの間にできた大きな隙間に表れているように思えてなりません。
それでも、ダ・ビンチは「救い」の可能性をこの絵に示しているように見えます。
イエスの左手はパンに伸ばされ、その右手はワインの注がれたグラスに伸びています。
「このパンは私の体であり、このワインは私の血である」
イエスはその肉体を犠牲にして、人間の救済を約束する。
そしてその両手は、不自然に広げられていないか?
イエスの両手は、ただ単にパンとワインに向かって伸ばされているのではなく、時空を隔てた此岸に立つ我々「いまの人間たち」を包み込もうとしているのではないか?
ダ・ビンチは聖書説話の「瞬間」を切り取ったわけではなく、キリスト教精神の「永遠」を画面にあらわしたのではないか?
だからこそ、だまし絵的な超時空空間を創り出したのだと、思えてならない。