■そもそもヒトは物々交換からはじまった
その昔、まだ貨幣のない時代は、労働の対価やお礼はモノでした。
米をあげるから野菜を替わりに、大工を手伝えば酒や宴の振る舞いで。
そのうち、モノと相応のお金、労働と相応の報酬となり、
現代では、お金がお金を生んだり、期限の利益つまり時間とお金が交換されています。
そんななか、世間を賑わせる贈収賄事件。
時代劇では悪代官と越後屋のからみ、現代ではかの有名なロッキード事件やそこいらの袖の下事件はザラ、つまりお金と職権が交換されるようになっていますよね。
談合事件だって日常茶飯事です。
でもそんな賄賂・談合にまつわる事件はいつになっても終わりません。
表に出ないものも無限にあるでしょう。
ではなぜ賄賂・談合が止まらないのでしょう?
答えはカンタンです。それはヒトにとって自然な資質だからです。
ヒトに助けてもらったらお礼をする、モノをもらってもお礼をする、仕事をしてもらったら対価というお礼をする。
仕事の対価は報酬であってお礼ではないなんて言われそうですが、根本は同じことです。
賄賂・談合はお礼という約束を先にもらって仕事をするわけですが、やはり根本は同じです。
もちろん職権が絡みますから、仕事をできる人は限られます。
しかしよくよく考えると、あらゆる人があらゆる仕事をできるわけでもなく、やはりある意味「得意な分野」しかできません。
職権を持っているヒトは、持つべく努力をして、その立場を獲得しています。
もちろんどんな仕事にも「成せる業」があるように、その仕事をして対価を獲得しているんです。
こんな話をすると「でも悪いものは悪い」なんてことになるでしょう。
その「悪い」というのは社会ルールとして後から決めたものなんですね。
社会ルールに反すると、やはり社会ルールで決められた罰則を与えられます。
それも後から決めたものですが、ルールがある以上従わざるを得ないでしょう。
ここでしっかり切り分けて考えてみて下さい。
良し悪しではなく「社会ルール」と「自然の成り行き」は別物です。
賄賂や談合がなくならないのは、その行動がヒトにとって自然だからです。
もちろん自然破壊が好きな人間様は、社会ルールというツールを持ってその自然な行動を排除していきますが。
社会ルールに厳しい輩にひとつ聞いてみたいですね。
あなたは、30km/hの道路を30km/hで走行していますか?
ばれなければいいとは言いませんが、社会ルールにも取りこぼしは沢山あるんです。