陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ -12ページ目

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

書こうというのは、良い兆候だ。

「なんとかしなくては」という危機感がわたしに書かせるのであるし、危機感をもつことができるというのは、それ自体が一個の能力であるからだ。

ほんとうにそうだ。なんとかしなくては。


学んだことがたくさんあるが、いつもどおり、まだうまく書くことができない。

だから、書かなくてはいけない。

ひとのために書くことと、自分のために書くことはちがうし、まずは、自分のために書くことが必要だ。


頭で理解していることと、身体で覚えていることとはちがうのだ、と本当に何度も話した。

まずは、いま、頭で理解した。

つぎに、身体で覚えることが必要なのだ、と、口が酸っぱくなるまで、言った。

僕たちはいつも、現場で、まさに、そのように理解が能力にまで深化しているか、験されることになる。


現場は「閉じて」いる。

ここに、現場という言葉は、場とともに、人を指している。

人としての現場については、ナルトを読もう。

小隊というのは、全体であり、宇宙であり、生命である。

それは、それ以上に分割することができない、不可逆な神秘である。

だからこそ、僕たちはそれに敬意を払わなければならない。

それはいつも、先行的に内在しており、操作の対象にならない…。


店長は「現場」の機能を「独立採算性」と呼ぶ。

それで「全部」だ。

失われたらそれまでで、補給はない。

僕ならばそれを、生命と呼び、その機能を生理と呼ぶ。

生理を理解するには、全体を観察しなければならない。

だから、「開店から閉店まで営業に入っているのでなければ、店舗の生理はわからない」。

ずーーっといる、定点観測者。

歩哨的知性だ。


しかし、一方で、小隊の内部においては、人はしばしば、その全体性を理解していない。

その無理解には、どうやら二種類ありそうだ。

どちらも、「井の中の蛙大海を知らず」、ということだ。

だが、この言葉において、カエルの問題とは、「井の中にいること」でもなければ「大海を知らない」ことでもない。

「井」を知らないことだ。

自分がおかれているところが井であることについての無知が、問題だ。

現場において、外部や補給を前提に行動するのは、小隊の全体性・閉鎖性を理解しない、敬意をもたない幼児、だ。

それが一つ目で、経験的には、中間管理職的無理解。

もう一つは、ワーカー的無理解。

部分しか見ていない。

生命は分割の不能な全体であるが、まるで分割できるかのように錯覚している。

生理が錯覚を排除するよう働くことがある、ということは覚えておいてよい。


「井の中の蛙大海を知らず」という言葉は、しばしば上長によって引かれるが、多くの場合、「誤用」される。

誤用する人間は、大海はおろか、井の中さえ知らない…。

だから、井と大海との関係が変化する際に、そこから引きちぎられてしまう。

そうならないためにも、現場に敬意を払い、よくその全体の観察をすることだ。

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。


*


このあたりになんやら書いていたのですが編集中に誤って消してしまったので、

再現しません。


*


お風呂で、なぜゲームが面白いか、最近考えていたのですが、その答えを思いついたので

かきます。


ゲームは、ちゃんと、おわるからです。


そこには十分に達成可能な有限性が備わっているからです。

その理由を、ユーモアたっぷりに説明したのですが消えちゃいました。


有限性があって、コレクションが完成するから、やる気が出るのです。

そうでなければ集めようというきもちができない。

無限は意味をむしばんでしまう。


科学性とは反証可能性のことだ、といいますが、それが最悪だとおもいます。

いや、たしかに、反省の態度としてはけっこうなのですが、やる気という観点からはあんまりです。


「最終的な解答」がでたら、ぼくを起こしてください。

それまで昼寝でもしています。


そして、ぼくの希望は、最終的な解答とそうでないものを色分けして、

確実なものだけを学びたいということです。

そんなものないのだ、ということなのかもしれませんが、

それにしても、どれくらい正しいのか、ということは、計算できそうな気がします。

論理学はただしそうですよね

言葉の仕組みや、完全な人工物は、長もちしそうです。


なんていうのか…有限性の線引きが、とても大切だと思うのです。

ここまではこだわるけど、この線を越えたら無視する、みたいな基準を、

「教養」なのか「知」なのかわからないですが、それに設けたいのです。


文科省が教育指導要領を設定している…

そうですね。

でも、人によって必要か否かのムラがあるし、どこまで知っているか、どこから知らなくても責められないのか、という基準なのかな…

すると、何をもってその基準とするのか、何に「必要」なのか、という問いに後退するのか。

そうすると、たとえば、国家にとって、国民が知っていると不都合なことはそのリストから削除するようになるだろうし、うーん。

開発者が善意に満ちたひとならよいのですが。



*


なんていうのか、普遍的なただしさ、よさ、うつくしさ、という観念をかんがえてしまうのです。

特に、よさ、かもしれません。


歴史は繰り返すといいます。

賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶともいいますね。

歴史も経験と思いますが、そこには客観的な普遍性があるといいたいのかもしれません。


歴史に学ぶことの意味というか目的とは、

歴史が失敗や誤りの連鎖であり、なんていうか、「最終的な解答」を提出したプレイヤーがいないから、ですよね。

無垢な主体がなくて、みんな泥がついている。

失敗しない、最終的な「ゴール」のようなものを想像しているのではないでしょうか。

途中で穴ぼこにおちてしまわないように、越えるすべを学べ、ということですよね。

同じ失敗をするのはバカだ、とおもうのです。

進歩のない人間はバカだ、と。

そうであるなら、歴史上の失敗をよく観察して、それを避けなければいけません。

失敗と回避術です。

そのとき、人間は本当に進歩できるのか、疑問がわいてきます。


たとえば、古代の暴君がいたとして、人間を無数に殺して財産を築いた。

財産で官僚を買収して好き勝手やった。

民衆がついに怒って暴君を殺した。

「私利私欲のために人殺しをしてはいけない」という教訓が引き出せたとして、

同じ失敗を繰り返さないようにできるでしょうか。

いや、なんていうんだろう。

うまくかけないのですが、

たとえば、その暴君に、そういうのはちょっとあんまりだぜ、と言っても、全然聞かないだろうし、

その後似たようなやつがでてきそうなときに言っても、やっぱりぜんぜん聞かないとおもいます。

ならば、もっと早い段階で手を打っておく。

話をきかなくなるまえに、だれであっても、他人の話を聞かなくても済むようになれる方法は全部塞いでおく。

塞いでおく石をどける方法がのこっていたために、やっぱり暴君がうまれてしまった。

その失敗を生かして、石をどける棒を除いておいた。

棒をよそから持ち込んだ。

もちこめないように、そこまでの道のりに、てぶらでないと渡れないような仕組み(ターザンロープとか)を

用意した。

などなど、すこしは、時間がかかるようになるかもしれませんが、やっぱり失敗はするのではないか、と。


「はじめからそういうものだし、根気よくやるしかないんだよ」という大人びた答えがあるかもしれませんが、「いやになる」ことは、それも、場所が与えられないといけない気がします。


歴史を振り返った時に、あらゆる失敗の連鎖として、映りますが、わたしたちは過去の歴史のどこまでを解決し、どこからがまだ未解決の問題として残っているのか、すくなくともぼくはぜんぜんわかっていないことに気が付きました。


たとえば、「なぜ人を殺してはいけないのか」がもう答えられない。

答えが出るとも思えない。

そういうとき、理想を求める「問い」を凍結して、生きていくしかない。

ポーの短編に『ヴァルドマアル氏の病症の真相』 という作品がありますが、そんな感じです。

自分が死んでいることを忘れているうちにしか、生きていられないという感じがする。

ぼくは、あらゆる改善志向を拒絶して自殺する人を否定できないのです。

宿題やったか?歯は磨いたか?

めんどうだから自殺する。

理想が困難で凍結しているのに、なぜ、改善なんていうことを無垢に信じられるのだろう??


なんていうか、僕にとっては、生は「逃亡」しかえらぶみちがないのです。

ゲームや夢に逃亡するか、あるいは、「意識高い」ような、「就職活動」や「社会活動」やなんやらという「現実的」で「有意義」な承認に満ちた対象に「前方逃亡」するか、です。

「真面目」こそ、「アイロニー」の骨頂です。

いずれ、ぜんぜん信じられないのです。


映画「グレムリン」で、ケイトの父は自宅の煙突からサンタの姿で現れようとして首の骨を折って死んだという設定が与えられていますが、もうちょっと「マシ」な死に方にしてやれよ、とおもいます。

「戦争」で「殉死」とかのほうが、「意味」に満ちていてとてもいいんじゃないかな。

「無駄死に」だけは、ちょっと、いやですよね?


「羅生門」の下人はがらんどうとして人気のない都の門下で、行く当てもなく途方に暮れていた。

  作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申の刻下りからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。そこで、下人は、何をおいても差当り明日の暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。


今、下人は経済的に困窮し、生きるために他人を搾取すべきか、否か、という問いの前に立っている。ここに言うセンチメンタリズム(Sentimentalisme)は、「河童」において資本家のゲエルたちに指弾されるのと同じ、余りにも幼稚でナイーブな見解である。河童の国では「平均一箇月に七八百種の機械が新案され、何でもずんずん人手を待たずに大量生産が行はれる」ために「職工の解雇されるのも四五万匹を下らない」。罷業された職工たちは殺して食肉として市場に流通されるというのである。

  「その職工をみんな殺してしまつて、肉を食料に使ふのです。ここにある新聞を御覧なさい。今月は丁度六万四千七百六十九匹の職工が解雇されましたから、それだけ肉の値段も下つた訣ですよ。」
「職工は黙つて殺されるのですか?」
「それは騒いでも仕かたはありません。職工屠殺法があるのですから。」
 これは山桃の鉢植ゑを後に苦い顔をしてゐたペツプの言葉です。僕は勿論不快を感じました。しかし主人公のゲエルは勿論、ペツプやチヤツクもそんなことは当然と思つてゐるらしいのです。現にチヤツクは笑ひながら、嘲るやうに僕に話しかけました。
「つまり餓死したり自殺したりする手数を国家的に省略してやるのですね。ちよつと有毒瓦斯を嗅がせるだけですから、大した苦痛はありませんよ。」
「けれどもその肉を食ふと云ふのは、…………」
「常談を言つてはいけません。あのマツグに聞かせたら、さぞ大笑ひに笑ふでせう。あなたの国でも第四階級の娘たちは売笑婦になつてゐるではありませんか? 職工の肉を食ふことなどに憤慨したりするのは感傷主義ですよ。」
 かう云ふ問答を聞いてゐたゲエルは手近いテエブルの上にあつたサンド・ウイツチの皿を勧めながら、恬然と僕にかう言ひました。
「どうです? 一つとりませんか? これも職工の肉ですがね。」
 僕は勿論辟易しました。いや、そればかりではありません。ペツプやチヤツクの笑ひ声を後にゲエル家の客間を飛び出しました。それは丁度家々の空に星明りも見えない荒れ模様の夜です。僕はその闇の中を僕の住居へ帰りながら、のべつ幕なしに嘔吐を吐きました。夜目にも白じらと流れる嘔吐を。


 たしかに、社会制度は明白に間違っている。弱者たちに体制の矛盾を何もかも押し付けて彼らを文字通り食い物にしているのだから。しかし、これに対して、有効な批判をするためには、自分がそうしたシステムから完全に独立した潔白の立場からそれを投げかけるのでなければならない。「羅生門」の下人がそうであるように、制度の内部に身を置いている人間は、自らが生きるために、自分よりもさらに弱い弱者を食う他ないのである。だからこそ、下人は、どこにも行くことができずに、門下で雨やみを待っているのである。

 どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑はない。選んでいれば、築土の下か、道ばたの土の上で、饑死をするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人になるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。

今、道は二つある。身を清いままに保って、自らの身体を燃やし尽くす理想主義(餓死)か、あるいは、悪人(盗人)として弱者を食って生きるか、のいずれかである。これは、芥川の芸術至上主義を倫理的側面からみたものである。
芥川は若い日にはもちろん、ここで、ふたまた道のうち、悪人として生きる道を選択したのである。この後下人は羅生門の楼上で老婆が死体の髪の毛を抜いているのを目撃するのだった。


「成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往いんだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」


社会関係はエゴイズムに満ちた娑婆苦の世界である。誰も彼も醜いエゴイズムによって動き、より弱い弱者を食い物にする。その連鎖こそが世界それ自体なのである。だから、まず以て悪ではない立場はありえないのであって、悪ではないということを主張する者は、自分の生活の安寧が弱者の犠牲の上に成立していることを忘れている、むしろ傍若無人な人間なのであって、そんな誰しもが逃れられない悪を嫌い餓死をするのは無力なセンチメンタリズムに過ぎない、という認識に、たどり着く。


「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」
 下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。


こうして一度「悪」への道を選んだ下人は、弱いものがさらに弱いものを犠牲にする悪の連鎖から離脱するための、善を可能にする無垢な立場の建設を目指すことになる。つまり、芥川が自閉する意識の世界を目指したのは、社会関係を「悪の連鎖」と感受したところに初めの動機をもつのである。社会関係のうちに生活を営むことは、必ずその足元に弱者の犠牲を要求するという認識が正しいなら、老婆のように悪に居直るか、死ぬかしか道はないだろう。