書こうというのは、良い兆候だ。
「なんとかしなくては」という危機感がわたしに書かせるのであるし、危機感をもつことができるというのは、それ自体が一個の能力であるからだ。
ほんとうにそうだ。なんとかしなくては。
学んだことがたくさんあるが、いつもどおり、まだうまく書くことができない。
だから、書かなくてはいけない。
ひとのために書くことと、自分のために書くことはちがうし、まずは、自分のために書くことが必要だ。
頭で理解していることと、身体で覚えていることとはちがうのだ、と本当に何度も話した。
まずは、いま、頭で理解した。
つぎに、身体で覚えることが必要なのだ、と、口が酸っぱくなるまで、言った。
僕たちはいつも、現場で、まさに、そのように理解が能力にまで深化しているか、験されることになる。
現場は「閉じて」いる。
ここに、現場という言葉は、場とともに、人を指している。
人としての現場については、ナルトを読もう。
小隊というのは、全体であり、宇宙であり、生命である。
それは、それ以上に分割することができない、不可逆な神秘である。
だからこそ、僕たちはそれに敬意を払わなければならない。
それはいつも、先行的に内在しており、操作の対象にならない…。
店長は「現場」の機能を「独立採算性」と呼ぶ。
それで「全部」だ。
失われたらそれまでで、補給はない。
僕ならばそれを、生命と呼び、その機能を生理と呼ぶ。
生理を理解するには、全体を観察しなければならない。
だから、「開店から閉店まで営業に入っているのでなければ、店舗の生理はわからない」。
ずーーっといる、定点観測者。
歩哨的知性だ。
しかし、一方で、小隊の内部においては、人はしばしば、その全体性を理解していない。
その無理解には、どうやら二種類ありそうだ。
どちらも、「井の中の蛙大海を知らず」、ということだ。
だが、この言葉において、カエルの問題とは、「井の中にいること」でもなければ「大海を知らない」ことでもない。
「井」を知らないことだ。
自分がおかれているところが井であることについての無知が、問題だ。
現場において、外部や補給を前提に行動するのは、小隊の全体性・閉鎖性を理解しない、敬意をもたない幼児、だ。
それが一つ目で、経験的には、中間管理職的無理解。
もう一つは、ワーカー的無理解。
部分しか見ていない。
生命は分割の不能な全体であるが、まるで分割できるかのように錯覚している。
生理が錯覚を排除するよう働くことがある、ということは覚えておいてよい。
「井の中の蛙大海を知らず」という言葉は、しばしば上長によって引かれるが、多くの場合、「誤用」される。
誤用する人間は、大海はおろか、井の中さえ知らない…。
だから、井と大海との関係が変化する際に、そこから引きちぎられてしまう。
そうならないためにも、現場に敬意を払い、よくその全体の観察をすることだ。