tan | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

 推理小説とはなんであるか。物語性のある小説の典型が推理小説である。推理小説の読者は事件の真相がすべて明らかになったときにカタルシスを得る。小説を構成する全ての要素が伏線としてある方向へと向けて配置されている。小説の全体が収斂する結末に近づくほどに興奮と緊張が高まっていく。その目がけられる方向、収斂点が「消失点」である。しかし、では、謎がすべて解き明かされて真理が明らかにされるときに、何がどうなるのか。なぜ私たちは作品の読後、カタルシスの感動を受け取るのだろうか。その内実はなんであるのだろう。結論から言ってしまうと、それは、「推理」が「喪の作業」であるからである。

私たちはふつう、次のような推理小説観を持っているのではないだろうか。推理小説の終わりは探偵の推理によって過去の事件の真相が明らかになり犯人が逮捕されることであって、その行為の全体が、ひとつの弔い合戦、復讐として機能するのである、と。それは一種のゲームのようなものと感じられている。テニスやサッカーのように同じ目的を持った二つの立場の人が鏡像関係的に対立するゲームではなく、鬼ごっこや野球のように、まったく違う目的を持ったふたつの立場が向かい合うような知的なゲームである。推理ゲームにおいて二つの立場とはもちろん、探偵と犯人である。探偵の目的は推理であり、犯人の目的は事件を迷宮入りさせる、または、自分以外のべつの人間を犯人に仕立て上げて罪を免れるなど、「嘘」を全うすることである。探偵と犯人とのどちらかのみが笑う、そういう勝敗を争うゲームなのだ、と。

いや、そうではないのではないだろうか。探偵の目的は被害者の死の真相を明らかにすることではない。探偵の仕事は死の唯一的真相を発見することではないのではないか。死者の死の未知性に深く思いを致すことが「喪」を司る存在としての探偵の仕事ではないか。犯人が必要なのはそいつがいれば事件の真相がわかるからではない。というのも、現に、まさに犯人に殺されつつあった被害者の心情はぜんぜんわからないからである。あるいは無念であったかもしれないがあるいは本望であったかもしれない。それを確言することはもうだれにもできない。犯人をつかまえて何がおきるのかといえば、なぜこんなやつに被害者はころされなくちゃいけなかったのかという疑問が喚起される。犯人がみつかると被害者はほんとうは死ななくてもよかったことが見えてくる。

 喪の作業(Mourning work)とはなにか。愛する人物が亡くなった際、深い悲しみから、その死者の思い出ばかりに固執し、外界に対する興味を失った状態に落ち込んでしまうことがある。しかし、私たちはそういう状況から一定の時間をかけて、徐々に喪失の現実を意識的に受け入れるよう努力し、愛する人を失ったという厳しい現実と妥協的に和解し元通りの生活を送ることができるように回復する能力を有している。その回復までの一連の心的な過程のことを「喪の作業」という。

 現実吟味がやがて愛された対象はもはや現存しないことを示すことになるが、死者の死を受け入れるためには時間がかかるのである。 彼らの不在を受け入れるためには、ここにも彼はいない、こちらにもいない、ここにもいない、と、ひとつひとつの場所を確認して回らなくてはいけない。何をみてもあなたを想い起させられる、世界の些細な出来事があなたの登場を期待させる。あなたが死んだというのは何かの間違いだったのではないだろうか?しかし、もちろん、死者は戻ってはこない。その都度期待は裏切られ、私たちの心を蝕む。

 ところで、なぜ死者はこのように私たちの意識からなかなか立ち去ってはくれないのか。次の例を考えてみよう。

 天災で死んだ人間の遺族は、なぜ死者が、私ではなくその人が死ななくてはならなかったのかという理由の不在に苦しむことがあるという。たとえば、電柱が倒れてくる。電柱は隣り合って歩いていたふたりの人間の一方の上に倒れ、他方の上には倒れなかった。しかし、そこで電柱が倒れてくるのはどちらの頭上でもよかった。論理の経済として、その人が死ななくていけない理由がないことは同時に私が生き残らなくてはいけない理由がないことを示さないではいない。なぜあなたは死ななくてはいけなかったのだろう。私はどうして生き残ってしまったのだろう。これが現実の被災者にとって、また生き残ってしまった私たちにとって、切実な問いとしてある。こうした袋小路はどうやったら解除できるのか。

 ここで、反対に、死者の側から事態を眺めてみよう。私たちが死者であったなら、どのようにしてもらったなら成仏できるだろうか?それは「死者扱い」して欲しくないということである。死者をたんなる「もはや人間ではないもの」として接しそれをはやく遠ざけようとすることは反って強迫的な反復を招くだけである。あたかも生きた人間であるかのように接しふるまうことが、逆説的ではあるが、死者を過ぎ去ったものとする。もしも死者が最後に私たちの前に現れた後も、その魂が持続して存在しているのだとすれば、魂のうえにも等しく時間が降り積もっているということになるだろう。そのことが導くのはそのままに、愛する当の対象がいま何者であるのかわからないということである。なぜならば「喪の作業」の主体たる私たちが死者の願いをかなえようとどんなことをしても、それが故人のほんとうの願いであることを私たちはついに言い当てることができないからである。「喪の作業」の主体が、死者のためにできることは、唯一、そのつど、死者が口を聞いてくれないから、どのようにふるまったらいいのかわからない、あなたがここにいてくれたら、声が聞けたら、手で触れることができたら、どんなにかよいだろうとオロオロメソメソと嘆く姿を見せてやることばかりである。

 愛する人を失った人間は、自分は不本意ながら生き残ってしまった、と思うだろう。その後の生はずっと、本来じぶんが生き延びていてはいけない「余生」として感じられるだろう。愛する人が生きていた時分に夢想した未来とはあまりにもかけ離れているからである。ふたりで一緒にあれをしよう、これをしようと、約束を交わしたかもしれない。そういう期待であり未来への投企のすべてが、いまや水泡に帰してしまった。それで生きながらえて何になるというのだろうか。

 このように、「死にぞこない」という自意識を持った人間から世界を眺め渡すとずいぶんと異なった姿をとって現れる。自分がここにいるということをさも当然の権利であるというような顔をしている能天気な人間に腹が立つ。その無責任、無反省、無批判が、当たり前の日常を送り続けていることが許せない。その付和雷同、事大主義が気持ち悪い。その安全で平和で穏当な時間は、本当はなんの保証も与えられていない。なぜドラマのエキストラのように背景的な、何者にもなることのできないつまらない人々が大手を振って歩いているのだろう。私たちは当たり前の生活を送る人々に嫌悪と嫉妬を覚える。なぜ私たちばかりがこんな受難に見舞われるのか。

 しかし、このような、傷ついている人の前で無神経に幸福を見せつけてくるような、モラルのない人々、いわばノンモラルの人々を呪ってはいけない。なんとなれば、彼らこそは、傷ましい事件がなければ、私と故人とがそうなっているであろう「ありえたかもしれない姿」であるからである。それは未来の方からきた故人なのである。また、さらに言えば、無神経なノンモラルの人々のような「ダメ」な比較対象があればこそ、悲痛な苦しみの中にあるため日常的惰眠から一時的に覚醒し、世界への透徹したまなざしをもつことのできる私の知的優位が、価値のある立場になるのである。あらゆるひとが「ダメ」なままでいることを許されず強制的にかならず覚醒しなければならないとされるのであれば、その重さはすこし軽くなるだろう。自由な意志によってつかまれなくてはならない。

生々しく切迫する死者の影も、時間の流れの中で必ず薄れていってしまう。死者をどれだけ愛していても、私たちの生にとって、現在という不確実な見通しの立たない限界的な状況の中でつかまれた認識と、またほとんど奇跡のようにして出会う他者たちが、どうしようもなく重要なのである。いま、私もまた、ノンモラルの人々へと漸近しつつある。その自然の流れに逆らいきること、ノンモラルの忘却へと堕落していくことを自分に許さない潔癖は、故人のあとを追っての「自殺」に到る他ない。自殺でもなく、かといって、ただ、あまりにも不誠実にノンモラルへと崩れ落ちていくのでもない、そんな第三の道はありえないのだろうか。

故人への本当に純粋な連帯は、やはり自殺である。それを選ばない、選ぶことのできないということは、私の彼/彼女に対する愛が不徹底なものであったと、そう評価されて仕方のないことなのではないだろうか。私が生きていくことはそれ自体が、死者に対する裏切りではないだろうか。私からの愛は不徹底なものであったかもしれないが、故人からする私への愛は、徹底されたものだったかもしれない。生き残ったのが私ではなく彼/彼女ならば、死者に対する裏切りを働きながら生きながらえることを潔しとせずに自殺を選んだのではないか。こんなとき、よくフィクションでは、次のような場面が見受けられる。

「そうではないのではありませんか。あなたが後追いをしても故人は喜ばないのではないのですか。故人はただ、あなたの幸せを想って、死んだ私のことは忘れてあなたに生きてほしいと、新しい愛を見つけてほしいと、そのように言うのではないのですか。」

しかし、厳密に言えば、死者の位置における相手への徹底した愛と、生者の位置における相手への徹底した愛とは別物である。死んだときには、相手に生きてくれるように求め、生き残った時には、後を追うことを選ぶ。同時に実現することはありえないが、その両方で、エゴイズムを捨て去ることが、真に徹底した愛の立場ではないだろうか。いま、上のご都合主義的な説得を受け入れてしまうというのは、死んだときには相手に後追いを求めながら、生き残った時には「後追いはやめてくれ」と故人は考えていると思いなそうとするような、もっとも薄情な立場であるかもしれないのである。どちらに転んでもじぶんは傷つくことがない、賭け金を置いていない一番卑怯な立場なのではないだろうか。

したがって、故人を忘れて生きていくことは、この、一番卑怯で薄情かもしれないと疑われてしかたのない立場を選択するふるまいである。それは野菜の無人販売所で大根を購入することに似ている。あなたではなく私が死んでいたら、あなたに死んだ自分を忘れて生きてほしいと望んでいることができたかどうか、証明する手立てがない。わたしたちはこの曲がり角を無傷で抜けることができない。ここで、「純粋無垢な絶対的倫理」はいちど膝をついてしまう。だから、これ以後の生は、拭い去ることのできない汚れがついた倫理を抱えて生きていくことになる。しかしこの汚れた不完全な倫理、不徹底な誠実は、完全無欠であるがゆえにぶんぶんと強振される大文字の正義よりもなにか別の意味で正しい、と感じられる。それは私の存在の内に深く根を下ろしているからである。

以上で、「被害者」については一通り考えられたとおもう。それが推理小説の「本質」であるという読み替えである。推理小説のカタルシスとは「喪の作業」が一巡する、その現実吟味のチェックリストがすべて塗りつぶされる、達成のカタルシスである。そこで私たち読者は事件の被害者と近しい人と共に、ついに、「すべての検討の果てに、それでも残される「被害者の心」というブラックボックスの不可知性」へとたどり着く。その結局どうしようもない容赦のない現実が露わになるところが、「終わりのない終わり」である。「「話」らしい話」であり「筋」は文学における遠近法的配置であったが、遠近法絵画における消失点に対応するのが、この、ご都合主義的な意味づけをいっさい拒否する容赦のない現実としての被害者の心である。消失点がその等質的空間の源泉でありすべての存在がそこへと向けて配置されるところの目がけられる的でありながら、しかし、それ自体は絵の中に直接的に「描かれない」ように、被害者の心中は、推理小説においてその話の源泉でありすべての伏線がそこへと向けて配置されるところの目がけられる的でありながら、しかし描かれないのである。つまり、こういうことである。遠近法絵画はほとんど等質な空間が拡がっておりそれにすべてが支配されているように見えるが、図面のど真ん中に、遠近法の失効するところがある。すなわち消失点の一点である。片目をつぶって、消失点のみを睨んで向かうとき、絵画はちっとも立体的な奥行きを持って現れないだろう。消失点のみは印象的にいつのまにやら掻き消えているのである。どんなにガチガチに「「話」らしい話」をふんだんに用いて小説を組み上げたとしても、絶対に回収されない、筆者の意図的な制御を逃れていくところが必ずどこかに残されているのである。

参考文献

海老坂武『サルトル―「人間」の思想の可能性』、岩波新書、20055

柄谷行人『日本近代文学の起源』、岩波現代文庫、20132

加藤典洋『敗戦後論』、ちくま文庫、200512

新宮一成他編『フロイト全集14』「喪とメランコリー」、岩波書店、20109