『途上』は、「「話」らしい話」のある小説の典型、推理小説である。しかし、作中展開される事件の難解さ、そして探偵による推理(種明かし)の巧みさ意外さはそれほど高度ではない。今回の議論では、推理小説における探偵と犯人、そして被害者の三者間の関係性についての一般的問題と、特に『途上』で問題になる「偶然」について、考察したい。
推理小説とはなんであるか。
物語性のある小説の典型が推理小説である。推理小説の読者は事件の真相がすべて明らかになったときにカタルシスを得る。小説を構成する全ての要素が伏線としてある方向へと向けて配置されている。小説の全体が収斂する結末に近づくほどに興奮と緊張が高まっていく。その目がけられる方向、収斂点が「消失点」である。しかし、では、謎がすべて解き明かされて真理が明らかにされるときに、何がどうなるのか。なぜ私たちは作品の読後、カタルシスの感動を受け取るのだろうか。その内実はなんであるのだろう。結論から言ってしまうと、それは、「推理」が「喪の作業」であるからである。
私たちはふつう、次のような推理小説観を持っているのではないだろうか。推理小説の終わりは探偵の推理によって過去の事件の真相が明らかになり犯人が逮捕されることであって、その行為の全体が、ひとつの弔い合戦、復讐として機能するのである、と。それは一種のゲームのようなものと感じられている。テニスやサッカーのように同じ目的を持った二つの立場の人が鏡像関係的に対立するゲームではなく、鬼ごっこや野球のように、まったく違う目的を持ったふたつの立場が対照するようなゲームである。推理ゲームにおいて二つの立場とはもちろん、探偵と犯人である。探偵の目的は推理であり、犯人の目的は事件を迷宮入りさせる、または、自分以外のべつの人間を犯人に仕立て上げて罪を免れるなど、「嘘」を全うすることである。
そうではないのではないだろうか。
喪の作業(Mourning work)とはなにか。愛する人物が亡くなった際、深い悲しみから、その死者の思い出ばかりに固執し、外界に対する興味を失った状態に落ち込んでしまうことがある。しかし、そこから一定の時間をかけて、徐々に喪失の現実を意識的に受け入れるよう努力し、愛する人を失ったという厳しい現実と妥協的に和解し元通りの生活を送ることができるように回復する能力を有している。その一連の心的な過程のことを「喪の作業」という。
私たちが愛を差し向ける対象を失ったために、その作業が達成されると、また新たな対象を求めて心的エネルギーは活動し始めることになる。
ひとは偶然のために、病に罹患したり事故に遭遇したりする。その窮極のあり方が「死」であるだろう。
僕の祖父は北ボルネオ島で敗戦を迎えている。
彼は南方で何度も死にかけている。
事後の視点から見れば、ほとんど奇跡と呼びたくなるほど、その生命が渡っていくための綱は細く頼りないものであったと思われる。
死のバターン行進
そこに横たわっているのが飢え死にした私の身体ではないのでなければならない積極的な理由は何もない。
実際、航空隊をジャングルへと送り出した殿部隊は全滅している。
人間は取り繕って生きている。ごまかして生きている。
人間は、理解のできない困難な、不安な、恐ろしい、複雑な現実をそのままに引き受けること、無意味さのもとに宙ぶらりんになることに耐えることができない。
ここで懸かっているのは、文学である
遠近法的配置という操作
深さ、奥行き、とは、なんであるのだろう
それはまったく、数学的問題だ
芸術的問題ではない
が、しかしそれでも、遠近法ということは、重要だ
古代にはない、人間の傾向を、よく表しているからだ
中世から生まれ出てきたものであるとともに、それを越えてはみだしてしまっている
古代芸術の特徴は立体性にある
中世芸術の特徴はすべてが等質的空間のもとに平等に配置されているということだ
合目的的な理解、回収
消失点において見通すことができるように配置しなおす
諸属性の収斂する結節点としての「私」
めんまはなんでジョーブツしたのだろうか
まずは願いが叶うこと=じんたんを泣かせることではない
じんたんが泣いた瞬間にジョーブツするならその通りだけどそうじゃなかったからである
みんながめんまの願いをほんとうに叶えようとしたこと
ジョーブツさせるための手段としてではなく単にそれそのものを目的ととること
つまり、めんまの願いが生前のもの=明白なもの「ではなく」よくわからないことを承認することではないか
なぜめんまは成長した姿で現れたのか?
死者をたんなる「もはや人間ではないもの」として接しそれをはやく遠ざけようとすることは反って強迫的な反復を招くだけである
あたかも生きた人間であるかのように接しふるまうことが死者を過ぎ去ったものとする
めんまの表象は時間が彼女の上にもひとしく降り積もったかのように見せる
めんまがあたかも生き続けていたかのように見せる
そのことが導くのはそのままにめんまがいま何者であるのかわからないということである
しかも、めんまの意識はそれだけの時間を経た成熟したものではない
つまり、めんまが何を欲望しているのか当のめんまにもまわりの人間にもわからないのである
これは驚くべき事態である
なぜならばじんたんたちがめんまの願いをかなえようとどんなことをしてもそれがじぶんのほんとうの願いであることをめんまはついに言い当てることができないからである
「めんま、見つけた!」ということばの届かないところにめんまは立っている
めんまの願いは結局わからなかったし、めんまは見つからなかった
それは「喪の仕事」がはじめからそのように構造化された理不尽なゲームだからである
そしてだからこそ、その弱さと誤りと探索の失敗こそがめんまを立ち去らせたのである
ぼくたちはめんまには会えなかった
その出会い損ないがめんまの面影を逆照射するのである
その場に私がいることがさも当然という顔をする人間に腹が立つ。
合理化
そう読むと筋が通って読むことができるように読み替えていく
自説にとって不利に働くあたらしい情報を無意識的に見落とすようにできている
きみは「それ」を「惰性」で続けているに過ぎない
そうでないと、なぜ、即答できるのだろう
即答できるということは吟味していないのだと自白しているに等しいのではないか
希少性、すなわち「他の何を以っても代え難いような、そこにしかない価値」について。
それは絶対の価値ではない。
「かけがえのなさ」という性質はただそれそのものに予め内包されているものではない。
それは他のものを以って代替出来ないかという検討を経て事後において迂回的にもたらされる相対的な価値にすぎない。
また、その代え難さが何かしらの価値として、積極的に称揚されるべき性質として、より一般的に承認されるべき要素として見なされようとするときそれはあるひとつの機能として同定されるほかない。
代え難さを他者に承認させようとするとき、それは道具=手段に堕するのである。
したがって希少性は逆説的にやがてそれそのものが失われる相対的優位性としてしか現れない。
「もはや」失われそこにはないものとして「初めて」私たちに想起されるものとして希少性はある。
特にここではそれは彼らによって選ばれなかった、より彼らにとって本来的な選択肢としてのかけがえのない純粋な経験として、ある種の後悔と憧憬とを伴って無限の距離の向かい側に映じられる虚像と別のものではない。
それは不可能な夢である。
普遍的に実体するものではない。
あるいは、しいて言えば、すでに為された出来事におけるそれ以外にできない出来事としての代え難さならば可能である。
ただしその純粋性はたんに過去の出来事の取り返しのつかなさ、不可塑性である。
希少性は過去の不可塑性を未来に向けた可塑的な選択に投影することによって生じる現在の擬似的な永遠性であるといえるだろう。
人間はそうしたダイナミックな時間操作を不断に、無意識裡に行っているのである。
なぜいま死者は過ぎ去らないのか。
むつかしい問いである。
しばらく考えてみたけれども、答えは出なかった。
ということはたぶん問いかたがあまりうまくない。
死者が過ぎ去らないのはなにも今回だけではないのではないか。
天災で死んだ人間の遺族は、なぜ死者が、私ではなくその人が死ななくてはならなかったのかという理由の不在に苦しむことがあるという。
たとえば、電柱が倒れてくる。
電柱は隣り合って歩いていたふたりの人間の一方の上に倒れ、他方の上には倒れなかった。
しかし、そこで電柱が倒れてくるのはどちらの頭上でもよかった。
論理の経済として、その人が死ななくていけない理由がないことは同時に私が生き残らなくてはいけない理由がないことを示さないではいない。
なんで彼/彼女は死ななくてはいけなかったのだろう。
私はどうして生き残ってしまったのだろう。
これが現実の被災者にとって、また生き残ってしまった私たちにとって、切実な問いとしてある。
こうした袋小路はどうやったら解除できるのか。
推理小説は結局「喪の儀礼」なのだとおもう。
喪の儀礼は死者の死の真相を明らかにすることではない。
つまり、探偵の仕事は死の唯一的真相を発見することではないのではないか。
いつもひとつの真実を見つけることではない。
ぼくはいまへんなことを書いている。
だって探偵の仕事は真実をあきらかにすることではないといっているのだからね。
そうではなくて、
死者の死の未知性に深く思いを致すことが喪を司る存在としての探偵の仕事ではないか。
犯人が必要なのはそいつがいれば事件の真相がわかるからではない。
というのも、現に、まさに犯人に殺されつつあった被害者の心情はぜんぜんわからないからである。
あるいは無念であったかもしれないがあるいは本望であったかもしれない。
それを確言することはもうだれにもできない。
犯人をつかまえて何がおきるのかといえば、なぜこんなやつに被害者はころされなくちゃいけなかったのかという疑問が喚起される。
犯人がみつかると被害者はほんとうは死ななくてもよかったことが見えてくる。
死者をなぐさめるのは、いや、死者を前にするわたしたちがなぐさめられるのは、死者の死の偶有性である。
別様でもあったかもしれない死者の死がわたしたちを救うのである。
「死者は無駄死にさせなければならない」とはこのことではないかと、ぼくは思う。
彼/彼女が死ななくてはいけない理由などなにひとつない。
私が生き残らなくてはいけない理由などなにひとつない。
最もよき者たちは戻らなかった。
彼らを想えば、ぼくは適さない。
どのようにしてあるべきか。
それはよき者たちに代わって、彼らの不在を補うことによって、と答えられる。
ぼくが彼らの代わりに、彼らの不在を補って、状況に介入するエージェント(代理人=触媒)である。
本来ふさわしくないぼくが彼らの代わりにここにあること、それをぼくは倫理と呼ぶ。
死者はいつまでも過ぎ去らない。
彼らの死は別様であってもよかったからである。
彼らの別様な死の潜在的可能性は無限にある。
だから彼らを想うことは終らない。
終らない死者の想起こそが生き残ってしまった人間の務めであり、またその存在の根拠であるのだとしたい。
この過程を経て、はじめて過去を過去のものとする道が開かれる。
死者はやがて過ぎ去る。
どんなに深く死者のことを愛していても、人間は死者の記憶よりもアクチュアルな生活の中で次第に彼らのことを忘れていく。
それは誰にも責めることができないけれども、しかし忘れゆく当人がみずからを責めてしまうことがある。
そうした人々は救われうるだろうか。
ぼくたちは誰しも自分の内に「そんなこと知らないよ」という無責任な声が響く場所をもっている。
これはそれを何とかしてコントロールしようとしてもうまくいかない。
というかその性質からして、それをコントロールしようとするその人自身に対して「そんなこと知らないよ」と言ってその手をすり抜けていってしまうものだ。
これがある限り、人間において経験される観念と物質的現実との齟齬は解消されない。
ここで私性と公性とがすれ違っているからだ。
でもこのことは人間にとってポジティブなものなのではないだろうか。
それは私を私にとっての他者とし、他者にとっての他者とする。
他者を他者にとっての私とし、私にとってのもうひとりの私とする。
ここまできて、みんな同じなんだという言葉が届くんじゃないだろうか。
さらに、死者を残して忘れてしまうことが、「そんなこと知らないよ」という無責任な声が、探されるべきものがなんであるかということを隠す幕になっているのではないか。
何かをさがすことは結局、さがされるべきものはそれではないことをわたしたちに教える。私たちはそれが探されるべきものではないからこそそれを探しているのである。
その弱く誤りやすいこと、探されるべきでないものを探していること。
換言すれば、探しものをするも当の探されているものが明らかでないこと、なにを探しているかというまさにその目的が隠されていること。
それが私たちの生をぎりぎりのところでつなぎとめる。
そうではなかったかもしれない可能性
失われた半身について。
私たちは、異界の入り口で影を奪われる。
半身は今正に、死のうとしている。
一冬かけて、消え去るだけだと言う。
少女の姿をとっている仙人に恋をしたとする。
でも仙人本人のいうとおり中身はよぼよぼの爺さんかもしれない。
真の姿をみせてくれるよう頼むべきなのか。
真の姿をみて幻滅するようでは「ほんとう」?のいみで愛しているとはいえないのではないか。
まず、真の私というものはどこにもない。
「仙人の正体」、真の姿なるものはない。
少女が爺さんに化けこれが「真の姿」であるといったところでそれは本当はどうなのかわからない。
幽霊はその力を宿した仮面を遺して消え去る。
旅の若者である主人公はその仮面を被って力をふるい、幽霊が生前に解決しようとして志半ばに無念の死を迎えた事件を死者に代わって解決していくのである。
で、おもしろいのは、幽霊がほんとうにいたかどうかということがどうもはっきりしないことなのだ。
もちろん、設定上はたぶん実在したことになっている。
魔法が前提されたゲーム世界の出来事だしね。
けれども、幽霊が実在しなくても、結局死者に代わって主人公が解決していく、その機能さえあれば世界がつづいていく。
主人公が代わって事件を解決したあとの時点から遡って考えてみると、幽霊以前に死者の生前の実在がおぼろげになっていく。
「仮面の下の素顔」が不確かになっていく、そういうことがある。
探偵と犯人と被害者とは、想像的に三角関係にある 犯人を見つけ出して豚箱にぶち込んでも、哀しみは癒えない だから、「推理」とは「復讐」ではなく「喪の仕事」なのである 現実吟味が愛された対象はもはや現存しないことを示す 死者の死を受け入れるためには、時間がかかる 彼らの不在を受け入れるためには、ここにも彼はいない、こちらにもいない、ここにもいない、と、ひとつひとつの場所を確認して回らなくてはいけないのである リビードが失われた対象に結び付けられていることを示す想起や期待の状況の一つ一つに現実が介入し それらのすべてに対象はもはや存在しないという評決を周知徹底させる 何をみてもあなたを想い起す 彼の席を(部屋を)片づけてはいけないわ。彼が戻ってきたときに座ることができないじゃないの そのあいだ、失われた対象の存在は心的に維持される 対象の死の宣告 すると自我はいわば汝はこの運命を共にすることを欲するやという問いに直面させられ、そして生きていることから受け取るナルシス的な満足の総計を考慮に入れて、無に帰した対象への自らの拘束を解除するという結論を甘んじて受け入れる
乗り越えるというのはどういうことなのだろうか。
直感だけれど、ぼくはたぶん「そのものの正しい名を呼ぶこと」
フェイクを敢えて、肯定すること。
夢を生きること、しかし目覚めてあること。
そこで、失敗や挫折といった、一切の意味づけを拒絶するような
不快の極、しかし既に生きられてしまった事実性を受け入れる「物語」
として、「失恋ゲーム」を提案する。
物語は果てない。
それは、たぶん、ままならないことだと思う。
一番重要なことは、「失恋ゲーム」の主体は誰か、ということです。
もちろん、「僕」ですが、僕が実際に失恋ゲームに参加しているとき、
まだその時点ではその恋が成就するのか、あるいは破綻するのか、
わからないですよね。
だから、「失恋ゲーム」として僕らが観賞しているのは、失恋ゲームの
録画なんです。全部終ってしまった時点(つまり「僕」が「失恋」という
結末を知った時点)から遡及して、この「失恋」全体について語っている、
というように時系列が転倒した形で構造化されています。
「失恋」の事実に愕然として「どうしてこうなっちゃったんだろう?」と
問うている「僕」という視点を通して失われた恋愛について語られます。
「僕」は「失恋」というラベルタイトルがつけられたつまらないフィルムを
何度もリピートする。
「失恋」という結末を知っている「僕」が「君」との出会いについて語る
シーンは、僕は余りに美しく、余りに切ないと思います。
「僕」は知っている。これから先、「君」が誰を好きになるか。
でも、「僕」は「君」と出会えてよかったと思う。
全ては無駄に終った。「僕」は自分の選択の全てが間違いだったという
結果通知を受け取っている。
でも、それでも「僕」は(例えば)「あの場面」で、何度でも同じように振舞う
だろうと確信する。
これは「純愛の悲恋」でさえない。「純愛」の物語に照らし合わせれば、
何の意味をも担えないバッドエンドだからです。
「君」は「君」でなければならない。でも、「僕」は「僕」である必要がない。
現に、本来「僕」が納まっているべきだと「僕」が主張しているその位置には
「彼」が立っている。
「この失恋」を以って、愛の一般交換の地平が立ち現れます。
じゃ、どうして交換が不幸をもたらすんだと思う?
交換が「手に入るけど、手に入らない」っていう逆説だからだよ。
交換するとき、みんなお互いに手の内を明かすでしょ。
「僕のこのカードと、君のそのカードを交換してくれ。」
他の人の持ってるものが手に入りうるようになる。にも関わらず、僕が
支払えるものには限度がある。だから、「手に入るけど、手に入らない」。
商品カタログを見ると物が欲しくなるのと同じだね。
人間の欲望の分析については、心理学や精神分析に多くの研究が
あるから、それを学ぶのがいいね。
愛は必然を求める。必然とは一つの物語である。物語は意味の束であり、
意味とは、抗エントロピー(ランダムさ)作用、不断の構造化のことに
他ならない。
その構造を保つのに、「言語」「貨幣」「女」の交換が貢献しているってわけ。
交換が構造を生成し、構造が交換を可能にする。「構造」と「交換」自体が
循環構造を描いているんだね。
「本当のアタシ」なんてない。自分のことは自分にも分らない。
自分が本当は何をしたいのか、それもわからないのに、
決断を迫られる。AかBか、決めないといけない。
フィッシュオアチキン?
うーんっと、えーっと、どっちでもいいです。
え、決めないとダメ?うーん。
あらゆる状況を前にして、世界と関わらないわけには
いかない。傍観者ではいられないのだ。
赤ちゃんの泣き声が聞こえる。
それを聞いてしまったが最後、僕は、
赤ちゃんの様子を見に行くか、あるいは行かないかの
二択を迫られる。
何もしないというのは、ひとつの積極的な選択である。
君が赤ちゃんを放っておきたかったから放っておいたのだと
言われても何も言い返せないということだ。
それが応答責任である。
君のふるまいは全て君の選択であると見なされる。
その帰着するところの責任は、一切が君にある。
それから逃れることはできないのだから、それを積極的に
捉えなおし、引き受けるのがいいだろう。
それが「投企」であり、「アンガージュマン」である。
参考文献
サルトル―「人間」の思想の可能性、岩波新書、海老坂武05/5/20
日本近代文学の起源、柄谷行人、13255岩波現代文庫
敗戦後論、加藤典洋、20051210ちくま文庫
フロイト全集14、2010929、1刷岩波書店、喪とメランコリー