14010719 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

探偵と犯人と被害者とは、想像的に三角関係にある

犯人を見つけ出して豚箱にぶち込んでも、哀しみは癒えない

だから、「推理」とは「復讐」ではなく「喪の仕事」なのである

現実吟味が愛された対象はもはや現存しないことを示す

死者の死を受け入れるためには、時間がかかる

彼らの不在を受け入れるためには、ここにも彼はいない、こちらにもいない、ここにもいない、と、ひとつひとつの場所を確認して回らなくてはいけないのである

リビードが失われた対象に結び付けられていることを示す想起や期待の状況の一つ一つに現実が介入し

それらのすべてに対象はもはや存在しないという評決を周知徹底させる

何をみてもあなたを想い起す


彼の席を(部屋を)片づけてはいけないわ。彼が戻ってきたときに座ることができないじゃないの

そのあいだ、失われた対象の存在は心的に維持される


対象の死の宣告

すると自我はいわば汝はこの運命を共にすることを欲するやという問いに直面させられ、そして生きていることから受け取るナルシス的な満足の総計を考慮に入れて、無に帰した対象への自らの拘束を解除するという結論を甘んじて受け入れる


「権力も財貨も威信も、暴力で奪うことができる。でも愛と敬意と知性だけは剣を振り回しても手に入れることが出来ない。」


自分の言葉に責任を持つというのはそういうことではないかと思うのだ。

自分が書いたものと心中できないならはじめから黙っていた方がいい。

黙ってじっとしていれば大抵のことはやり過ごせるだろう。

人生もまた例外ではない。


勇気が徳であることは疑わないが臆病を悪とするには抵抗がある。

でも、ときに臆してしまうことは仕方ないんじゃないかという気がする。

なぜ仮構的なゼロ地点が必要かといえば、それは成熟のためなんです。

「自由には責任が伴わなければならない」と言いますね。

では不自由に甘んじるならば責任は免除されるのか。

これは「自由ならば責任が伴う」という命題の裏、「自由でないならば責任は伴わない」に当たりますが、裏は必ずしも真ならず、ここでも誤りだと思います。

ぼくは時代がどんどん貧しくなってきていると考えているのですが、それは大人がいないからだと思います。

「不自由で構わないから責任は取らない」という立場の人が一定以上増えるとその社会集団は崩壊します。

それを回避する為に責任をとるには、選択の為の立脚点としてのゼロ地点が必要です。

つまり「責任には自由が伴わなければならない」んじゃないかと思います。

逆は正しいようですね。


日常と理念とを対立する二項に分節する作用こそが「近代」である。
あなたの思考はすぐれて「近代化」の効果である。
あなたが依って立つように、日常と理念が分かたれてあることが自明視されるのは「民族誌的奇習」であり「認識の檻」であり「バカの証」である。
ぼくはあなたとは意見を異にする者である。
時代的な規模のひどい思考停止=思いなし(仮象!)を一時中止し、日常と理念を再び結び合わせ、同時に生きる能力こそが今日求められる知性である…。


この、乗り越えるというのはどういうことなのだろうか。

直感だけれど、ぼくはたぶん「そのものの正しい名を呼ぶこと」なのだとおもう。

ぼくたちが自覚していない時代の支配的イデオロギーを指摘することがすでにして脱近代の運動であるのではないか。


*

もうすでに考えられている…。


一切がもうダメなんだったら、そんな配慮ももういらないだろう。

でも、ハイデガーは配慮した、ようにみえる。

つまりブレイクスルーはあるということだ。ではそれはなにか。

フェイクを敢えて、肯定すること。

夢を生きること、しかし目覚めてあること。

だから、劇場の比喩で、かつ、フーコーのように、

しかし「仮面をかぶって進みでる。」

ベタ→メタ→ガチってかんじね。


そこで、失敗や挫折といった、一切の意味づけを拒絶するような

不快の極、しかし既に生きられてしまった事実性を受け入れる「物語」

として、「失恋ゲーム」を提案する。

物語は果てない。

それは、たぶん、ままならないことだと思う。


一番重要なことは、「失恋ゲーム」の主体は誰か、ということです。

もちろん、「僕」ですが、僕が実際に失恋ゲームに参加しているとき、

まだその時点ではその恋が成就するのか、あるいは破綻するのか、

わからないですよね。


だから、「失恋ゲーム」として僕らが観賞しているのは、失恋ゲームの

録画なんです。全部終ってしまった時点(つまり「僕」が「失恋」という

結末を知った時点)から遡及して、この「失恋」全体について語っている、

というように時系列が転倒した形で構造化されています。

「失恋」の事実に愕然として「どうしてこうなっちゃったんだろう?」と

問うている「僕」という視点を通して失われた恋愛について語られます。

「僕」は「失恋」というラベルタイトルがつけられたつまらないフィルムを

何度もリピートする。

「失恋」という結末を知っている「僕」が「君」との出会いについて語る

シーンは、僕は余りに美しく、余りに切ないと思います。


「僕」は知っている。これから先、「君」が誰を好きになるか。

でも、「僕」は「君」と出会えてよかったと思う。

全ては無駄に終った。「僕」は自分の選択の全てが間違いだったという

結果通知を受け取っている。

でも、それでも「僕」は(例えば)「あの場面」で、何度でも同じように振舞う

だろうと確信する。

これは「純愛の悲恋」でさえない。「純愛」の物語に照らし合わせれば、

何の意味をも担えないバッドエンドだからです。

「君」は「君」でなければならない。でも、「僕」は「僕」である必要がない。

現に、本来「僕」が納まっているべきだと「僕」が主張しているその位置には

「彼」が立っている。


「この失恋」を以って、愛の一般交換の地平が立ち現れます。

じゃ、どうして交換が不幸をもたらすんだと思う?

交換が「手に入るけど、手に入らない」っていう逆説だからだよ。

交換するとき、みんなお互いに手の内を明かすでしょ。

「僕のこのカードと、君のそのカードを交換してくれ。」

他の人の持ってるものが手に入りうるようになる。にも関わらず、僕が

支払えるものには限度がある。だから、「手に入るけど、手に入らない」。

商品カタログを見ると物が欲しくなるのと同じだね。

人間の欲望の分析については、心理学や精神分析に多くの研究が

あるから、それを学ぶのがいいね。

愛は必然を求める。必然とは一つの物語である。物語は意味の束であり、

意味とは、抗エントロピー(ランダムさ)作用、不断の構造化のことに

他ならない。

その構造を保つのに、「言語」「貨幣」「女」の交換が貢献しているってわけ。

交換が構造を生成し、構造が交換を可能にする。「構造」と「交換」自体が

循環構造を描いているんだね。


真に語ろうとしていたことは存在しない。既に

語られてしまったことだけが存在する。

僕は、僕にとって、解けない問いとしてだけ、認識される。

僕は僕が本当は何を望んでいるのか、なんてことはわからない。

僕にわかる、僕のことは、僕が表現したものだけ。

表現はいつも遅れてやってくる。逃げていく「僕」という謎。
 「僕」は、表現されたものの内からしか取り出せないものだ。

けれど、表現という奴はいつも出遅れる。

僕というものは、ずっと揺れ動いている。ある時点で表現によって

切断された僕は、表現された瞬間に、既に変化してしまっている。

表現された瞬間、僕は、切断された不完全なレプリカと、やはり

不明なままの「現在の僕」とに、引き裂かれる。

「現在の僕」というものは、決して記述されない。

「僕」は表現を通してしか認識されない、というのは致命的なこと。

パロールについて。

声は、一瞬で過ぎ去る。僕は、同じ発話表現を二度と繰り返せない。

音量、アクセント、震え方、湿り気、破裂、強度…。

僕もまた、一人の聴衆として、たった一度の声を聞く。

しかも、声はそれを発する当人たる僕の下からこそ、最も遠くに

隠されている。僕の前で、声にまとわりつくノイズが最大になる。

くぐもった声は、オリジナルの情報を損なう。

僕は、大きな誤解をしている。僕は自分の声を間違って認識している。

声はいつも、失われたメッセージ、その不在が示されるばかりだ。

表現者を含めたすべての人にとって、失われた、一回性の

他者として、パロールはある。

エクリチュールについて。
牛乳パックに「おいしい牛乳」と書いてあっても、十年ほど日当たりの

いいところに置いておけば、その記述は嘘になってる可能性が高い。

記述された表現は、時間が経つと嘘に近づく。

僕は、少し前の僕についての表現を通して、現在の僕と、ちょっと違う

僕の意思を知る。だから、僕は、僕自身の表現に対して、全面的には

コミットできない。

05:人格と表現は切り離して考えよう。

「僕が今言いたいところのもの」と、「語られてしまったこと」とは

一致しない。

この、「ちょっとずれてるところの奴や!」っていう感覚を認めることは、

人間を聡明にする。この問題に対して、僕が提案するソリューションは、

人格と表現は切り離して考えようということ。

確かに、僕というものは、僕の表現の後に、発生する。

僕の表現が素朴で明朗なとき、読者には、「君の言いたいことはわかった。

もう、うんざりだ。君がどういう人間か、こうも簡単にわかってしまった。」と

言われるかもしれない。

でも、表現がいつも遅れてやってくるものであったから、僕は僕の表現に

還元できない。もしも、僕が汲み尽くせない表現の泉、ある種のかけがえの

なさのようなものを持つことがあるとしたら、それは、恐らくこれに由来する

ものだ。

だから、「僕」は解けない問いなのだ。


僕はもはや自信を失くしていた。まったくこの男の言うとおりなの

かもしれない。僕は醜く身を捩る芋虫を想った。僕は何も楽しく

踊っているんじゃないんだ。僕はたとえ、意味性の大地に介入する

為の手足を失っていたのだとしても、それでも尚抵抗の意思を

ただもがき続けることによっては、意味しうるはずだと固く信じて

いたのだ。それが僕の考える存在の高貴さというものだった。

「だがそれは間違いだった。君はリアリティというものを履き違えて

いた。世界とは関係の網だ。現実とは化かし合いのことなんだよ。

君は現実の持つ引力を甘く見ていた。現実は本来可能であるよりも

多く言質を奪い取る。そうして多くの物語は塗りつぶされ、多くの

存在は殺されていく。

人類史上、政治の場面において、対話による意思決定が為された

という事実は一切確認できない。構造的に言って、人間は物語を

交換できない。人間は物語の共有の後に成立する。従って、あらゆる

コミュニケーションは自足的コミュニケーションでしかない。

来る日も来る日も、「物語は共有されている」という物語が確認され

続けているだけだ。」

「つまり、「ビッグブラザーの出る幕はない」とは、そもそも物語は

異質さを受け入れることができないという端的な事実を表している。

存在を不幸にする「人間」というシステム。一般的に言われる「自分」や

「意識」などといったものを私たちは知らない。身体が魂の牢獄なのでは

ない。魂こそが身体の牢獄なのだ。」


そしてこうした問題は換言すれば「幻滅した後、尚も愛はあるのか」ということにもなります。

ほらね、「倦怠期の中年カップルにおける愛の再生のテーマ」。


こうしたことの問題意識というのは以前からぼくの中にもあって、

幻滅ということは

吐き気がこみ上げてくる。

僕はうんざりするけれども、どうしようもない。

『正視』
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10201079359.html

こちら。

そして幻滅以後の愛というのはそのものずばり「失恋ゲーム」という概念を考えています。


『「失恋ゲーム」の起源』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10413984018.html

『解題:「失恋ゲーム」』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10413990021.html

『メモ:日常系から「失恋ゲーム」へ。なぜ失恋「ゲーム」なのか。』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10416235050.html

『失恋ゲームと大人になるということ』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10419992767.html

『『らき☆すた』・ハイデガー・「失恋ゲーム」』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10438619259.html


けっこう考えてますね。えっへん。

それから、失恋ということが成立するには前提に「一夫一婦制」がある。

夫婦制度の問題に通ずる道をちらっと確認して、それから「恋愛シュミレーションゲーム」の問題系。

「恋愛シュミレーションゲーム」ではそのままですけど恋愛をシュミレートします。

結局ただのシュミレーションの問題と同じなんだけど、「そうではなかったかもしれない可能性」を呼び寄せないではいられない。

『単独性と偶有性』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10252087621.html


そして、誰かを選ぶことは別の誰かを選ばないことです。

イエスはノー、ノーはイエス。

これは手児奈姫にも通じるね。

『手児奈堂へようこそ』

http://tekona.luna.bindsite.jp/

別サイトね。ホームページ作ってたのね…おつかれさま。


また、「抜き差しならない究極的なエロス的関係モデル」というのはひとつには「三角関係」だと思う。

三角関係を考えるなら夏目漱石やドストエフスキーもいいかもしれない。

それで、三角関係についての吉本隆明さんの議論を呼んでおお、と思ったんだけど、三角関係というものは同性の人間のあいだにもある種の分かちがたい結びつきがないと成立しないんだってこと。

これが同性愛の問題、あるいは裏返せば「男女間の友情はあるのか」ということに通じていく。

これって突き詰めていくと、たぶん同性の友情もまた男女間における性愛と別のものではないんじゃないかという気もしてくる。

同性愛は視点の操作を加えればそのままBL論にも接続できる。