人間は身体的限界をもつから、生存の条件としての環境問題という意識が発生し、自分を取り囲む事物との関係性を対象化する。生存の条件として事物を対象化することは「私」に重心をおくととても傲慢な態度に繋がる。私が生き延びるための条件・手段・道具として私以外の事物は存在する。生存のために利用することを狙って事物を探していく。事物は薬や毒として利用価値のあるものとないものとして私たちの目に現れてくる。別の目的のための有用なある側面に注目して固定した関係性を意味や機能といい、それが手段として私たちの手に現れる。私はそれらの事物に手を伸ばす。生命とは絶えず崩れ去りつつある秩序である。秩序とは親ー秩序的なものを取り込みつつ、反ー秩序的なものを汲み出す絶えざる過程である。代謝は異化と同化から成る。同化とは食べることであり事物の口への現れである。食べられないことがあるなかで食べられることはありがたい。私を食わせてくれるもの、私を生かす私を越えたものへの意識が発生してくる。
ペット、人間にとって動物は大事なパートナーである。名付けは支配である。関係性を規定し、名前を押し付ける。どうやって人を呼ぶかということは支配関係に到る。呼び捨て、あだ名、蔑称など
人間は一人では生きられない。「ひとのあいだ」と書いてニンゲンと読むことに端的に現れているように、複数的存在・集団性・共同性をその本質とする。しかし人間はなぜ一人では生きられないのだろうか。無人島に漂着したロビンソン・クルーソーは一人で逞しく生き延びたのではなかったか。
集団と組織
政治と権力の配分
熱い説得は、組織の建前や公式見解を無批判に前提化・内面化した上意下達型の思考停止ロボットによる結論ありきの録音メッセージ再生である。
冷たい説得は、建前の外に自分自身の独立的な思考によってなされる言説に基づく対話である。真の説得は後者である。言葉が生きたものになるにはその発話者が魂をもっていなければならない。
僕は組織の犬を軽蔑する。それは「原初の自由」から遠いからである。
組織の目的に賛同出来ない、組織のあり方に賛同出来ない。換言すると前者は、何をやるかの時点で、後者は誰とやるかというところで躓いているのである。
強さとはなにか。喧嘩に勝てることを強さというのではない。気に食わない人間を殴って黙らせるのは頭の悪い未熟な子供のすることであって、真に強い人間とは無関係である。真に強い人間は天下無敵である。天下無敵とは世界のあらゆる人を殺すことができるということではない。もしそうだというなら例えば、絶対に開かないシェルターに閉じこもった/閉じ込められた人間を想起してみればよい。僕には強そうには見えない。
天下無敵とは天下に敵をもたないこと、誰とも争わないで共生できるということである。私たちは様々に不愉快な人間と出会う。けれどもそんな不愉快な隣人と共生できる成熟した人間がわずか存在する。共生とは妥協を意味するものではない。妥協は、現在の状況を規定する条件がなければもっとうまく行っただろうに、という期待に基づく意識であるが、期待は取らぬ狸の皮算用なのであって、現実ではなく幻想にすぎない。共生は現実から目を背けない。はじめから他者の方を向く。他者とは私の理解を絶した気持ちの悪く恐ろしい、私を脅かす存在である。けれども他者をむしろ歓待することがある。
しかし、そんな「過剰な強さ」は現代日本社会で生きるには不必要ではないだろうか。その通りである。私たちは「社会契約説」という優れた武装解除の理論をもっている。これは、仮説的な人間性悪説に基づいている。万人が万人に対して狼であるような、原初の闘争状態を仮定する。米国の銃社会のように、いつ頭のおかしい人間が我が家の窓ガラスを突き破って銃を乱射しに来るかわからない。毎晩ライフルを抱えて浅い眠りにつく。そんなのは苦しい。だから、互いに互いの自由を制限する契約をすることにする。武力を放棄し、国家に預けることにする。同罪法的な私刑をやめて、法治国家を選択する。
社会的に生きる人間は契約に基づく武装解除をしているのであって、力は不要である。だから、真の強さを求める人間は、アナーキーな、原初の自由に憧れる人間である。少なくとも僕はそうである。