芝居、演技、狂言
演じている意識、演じられている対象
ある人格を演じること
仮面がくっついて離れなくなる
演劇の本質
現前、再現、上演
顔とは何か
関係性の結晶
仮面
内面と表面
少女の姿をした仙人
王弁のアポリア
秩序を食うこと、飲み込むこと、消化すること
集団、秩序
集団生活は分業を要求するか
手段、道具、条件、部分性
分担
全体で一つの仕事をすること
期待、信頼
割り当てられた役割
同じだ、という共感、同情
私たちという感覚
共同性の感覚
期待される働き
内省、反省、再帰性
メタな、外側に抜け出る意識
法
列の割り込みという例
愚、道化
マゾヒズム
エゴイズム
道化
幇間
フェティシズム
所有
サディズム
アイデンティティ
期待、役割、分業
社会性
ロビンソンクルーソー
自己管理、枠組み、規律化
訓練
レールの上を歩く
魔法の力を宿した仮面が物語上の重要なアイテムとして登場する
孤独な旅をしている主人公の青年はあるとき不思議な世界に迷い込む
岩石人間や半魚人や木の根のような亜人
失意の内に死んだ人間の怨念が仮面として結晶化している
主人公は仮面を装着することによって呪いを受ける
仮面を身に付けた人間の姿はその呪力によって怨霊の生前の姿に変身し、超人間的な能力を発揮することができるようになる
名前というのは仮面のようなものである。
名前という中心的結束環?に諸要素がぶら下がっている。
社会的存在であるとは、仮面をまとうことである。
僕はまだ、人間を降りない。
中心的同一性の暴力、食べること、傷つけること。
王弁のアポリア
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10822914066.html
失われた半身について。
私たちは、異界の入り口で影を奪われる。
半身は今正に、死のうとしている。
一冬かけて、消え去るだけだと言う。
少女の姿をとっている仙人に恋をしたとする。
でも仙人本人のいうとおり中身はよぼよぼの爺さんかもしれない。
真の姿をみせてくれるよう頼むべきなのか。
真の姿をみて幻滅するようでは「ほんとう」?のいみで愛しているとはいえないのではないか。
まず、真の私というものはどこにもない。
「仙人の正体」、真の姿なるものはない。
少女が爺さんに化けこれが「真の姿」であるといったところでそれは本当はどうなのかわからない。
幽霊はその力を宿した仮面を遺して消え去る。
旅の若者である主人公はその仮面を被って力をふるい、幽霊が生前に解決しようとして志半ばに無念の死を迎えた事件を死者に代わって解決していくのである。
で、おもしろいのは、幽霊がほんとうにいたかどうかということがどうもはっきりしないことなのだ。
もちろん、設定上はたぶん実在したことになっている。
魔法が前提されたゲーム世界の出来事だしね。
けれども、幽霊が実在しなくても、結局死者に代わって主人公が解決していく、その機能さえあれば世界がつづいていく。
主人公が代わって事件を解決したあとの時点から遡って考えてみると、幽霊以前に死者の生前の実在がおぼろげになっていく。
「仮面の下の素顔」が不確かになっていく、そういうことがある。
愛と贈与をめぐる冒険
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-11404691702.html
私が始めて引っ越しを経験したのは、三歳になったばかりの頃のことだった。季節や時間などはっきりとした状況はわからないが、新居において一人で留守番をしなければいけないとなった際に、「人間は本態的に孤独であり、誰も自分のことを見てはくれない、自分が自分自身の主人であり、自由と責任というものがあるのだ」ということを、わけのわからない底抜けの恐怖として味わったことをよく覚えている。
生まれながらに住み続けた慣れた土地を離れ、知らない人と知らない風景の中へと入っていかなければならないということは、人間にとって一つの死のようなものとして現れるのではないだろうか。引っ越したばかりの土地は、電車の車内のように名前も肩書きも性格も分からない人々で溢れている。引っ越しにおいて私たちは喪失の感覚をもつが、そのとき何が失われるのか。私たちは人間や土地に対する「関係」を失う。「関係」には二種類の現れ方があるように思う。
第一に、「名前」である。知らない土地では、当たり前だが、誰も自分を知らず、自分の方でも誰をも知らない。周りの人と無関係であるから、名前を呼んだり呼ばれたりする機会が失われる。人間関係は、名前を呼んだり呼ばれたりする経験として現れる。
第二に、「顔」である。人間や土地との関係は「顔」として経験される。私たちは自分を取り囲む風景を無心に客観的に眺めているのではない。行きかう人々やそれぞれの土地にはそれぞれの生活・文脈・意味があり、独特の表情のようなものが私たちに向けられているのである。例えば、あのベンチでサンドウィッチを食べた、とか、あの木で木登りをしていて転落したとかいう経験があれば、ベンチに意識を向けたときサンドウィッチの味を思い出したり、木に意識を向けたとき膝小僧からしたたる血液の色・匂いと滲む痛みが伴ったりする。見知った顔を街中で見つけると、心が躍り、明るい気持になる。引っ越しは私たちの生を彩る出会いや、街並みの豊かな意味をみんな失わせる。私たちは知らない土地において、孤独である。顔もまた、名前のように、自分ひとりでは確認の出来ないもの、必要のないものだ。私たちはひとりきりでは、自分自身の顔をもたない。自分自身の顔は他者の目や、鏡など、外部の対象を経由することでしか、たどり着くことが出来ない。
名前と顔とは、私たちの「アイデンティティ」を構成する不可欠の要素である。「アイデンティティ」とは「この同じ自分」という語に由来するが、自分が自分であり続けること、他の誰でもないかけがえのない自分であることが、引越しによって困難になる。
引越しとは、アイデンティティ、顔と名前を失う経験、自分自身を失う経験である。千尋は、自分自身を失いつつある。湯婆婆に名前を奪われる前に、すでに、名前を失い、自分を失っている。
顔や名前から成るアイデンティティというものについてもう少し掘り下げてみよう。先に簡単にみたように、顔や名前というものは決定的に自分自身の核のようなものであるのに、自分自身では直接確認できず、「他者」に見られ呼ばれるばかりである。このことは、とても皮肉ではあるけれど、私たち人間が自分というものを(それはまさに自分であるのに、)自分ひとりでは確立することができず、他者との関わり合いの中で、他者に認めてもらうことによるほかないことを意味している。
先に、引越しによって関係が失われると書いたが、関係が、この「他者」である。ずっと同じ他者と関係を持ち続けるのであれば、私たちは自分を不変の同一性としてもち続け安らぐことができる。引越しによって他者が変わると、自分が認められていいない振り出しに戻ってしまうのである。
千尋が回復するためには、いや、引越しというはじめての喪失経験に適応するためには、新しい人間「関係」を構築し、改めて顔と名前、そして自分自身を創出する力を身につける必要があるだろう。