131015 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

芥川谷崎論争は、美をめぐる対立である。
美とはなんだろうかそれは、秩序必然性構造である。
乱調偶然性自由であると芥川は考えている
美はどちらにあるのか

私は二浪経験をもっている。一浪目は大手予備校に通っていたが、二浪目は小さな予備校で数学と英語だけ学んでいた。浪人経験が私に教えたのは、人間のとその生の本源的な無根拠さ、不確かさ、無意味さである。

第一に、それまでの人生観を持ち続けることができなくなった。それまでの私は社会の枠組みの中で安住していた。みなと同じように高校に進学するために中学に進学し大学に入学するために高校に進学した。今度は、就職するために大学に進むのだろうと思っていた。しかし、このようにして未来のために現在を犠牲にする、現在を未来の目的のための手段として、未来の奴隷として位置付けることは、何かが間違っていると思われた。時間を正当化するための意味や根拠を次々に先の出来事に預けていくことは、究極的には、人間は死ぬために生きていることになってしまうのではないだろうか。あるいは、死という「終局」をそのままに肯定することができないから、「死後の生」というフィクションとしての「あの世」や「天国」という装置を作らざるを得ないのではないだろうか。

第二に、人間の存在についての認識が変わった。それまでの私は、人間の存在は確かなものであると思っていた。けれども、二浪目に大手予備校を辞めたとき、私は自分がほとんど何の「肩書き」ももたないことに気が付いて衝撃を受けた。予備校生は「学割定期券」を購入することができるが、予備校に在籍しなければ、それを購入する資格をもたない。私の肩書きは「浪人生」でしかなくなった。大学に合格すれば、たしかに受験勉強をしているあいだの時間はやがて意味を与えられ社会的な文脈に回収され救われることになるだろう。けれども、そうでなければ、たとえば、合格する前に死んでしまったらどうなるだろうか。その時間は何物でもない時間、何の意味も根拠も正当性ももたない時間になってしまうのではないだろうか。自分で自分の人生を、現在の存在の在り方を好きに解釈し肯定すればよいではないかと考えられるかもしれない。しかし、そうはいかなかった。私は自分の人生を自分だけによって意味づけることができなかった。どうしても、他者からの承認を欲しく思った。他人のまなざしに映った像こそが自分だと思われた。
二浪経験は精神に大きな苦しみを与えたし、それまでの自分の物の考え方の基盤ともいうべきものをことごとく破壊し、一種茫然自失のようにしてしまったが、それは私において、社会の枠組みの中に安住する人間における、既得権益と人間関係のしがらみとによる生の本質についての一種の覆い隠しを取り払う効果をもった。私は、人間の存在やそれを確かにする出来事の通時的な連続性というフィクショナルな意味づけによる正当化の遂行的行為に無自覚的な人間を心の底から軽蔑している。「肩書き」のもとに自分の存在を隷従させ互いに意味を承認し合う社会的生活はそれ自体が巨大な欺瞞であり原的な犯罪であると思った。私は恐ろしく孤独で

あり不安定であったが、他方で、「肩書き」という社会的紐帯を一切もたない底抜けの自由を深く愛していた。
芥川の孤独と不安定と秩序組織の拒絶の先に美を求める態度を私は理解する。けれども、社会的な関係性を否定した先に待つのは自己の生の意味的な拡散である。私たちは自分の生に自分自身によって意味を与えてやることができない。それはなぜだろうか。