なんかおもしろかった
「9月22日『日本の起源』出版記念 中世化する日本?『平清盛』から『日本の起源』まで@ネイキッドロフト」へのフォロー - インタラクティヴ読書ノート別館の別館
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20130925/p1
「自分でやった方が早い病」とは ■病状 ・「自分でやった方が早い」という考えに陥る...
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*
演劇と経済学と音楽だ
どうして芥川は自殺しなくちゃいけなかったのか
自殺するほかにない
なぜだ
ぼんやりとした不安
概念の外に立つこと
責任ってなんだ
現実とは、成熟とはなんだろう
現実は二つの側面を持つ
すなわち、過去と未来とである
過去とは、現実の確定的な側面であり、未来は、現実をつくっていく、私たちのプロジェクトに対する態度をとることによって表れる
成熟とは、「これ」を、夢ではなくて、あたかも現実であるかのようにふるまうことだ
現実であるかのようにふるまうことは、なんだろう
集団において、集団的に生きられるように生きることだろうか
なぜ人を殺してはいけないのか、と、問わないことだろう
ままならない現実との苦い和解を成熟というのだろうか
それはほとんど楽観的であることをやめて馬鹿になることではないだろうか
僕は馬鹿にはなりたくない
なぜなら馬鹿は不自由だからだ
僕は楽観的な阿呆でありたい
面白いことはよいことだ
自由とはなにか
人に期待されるじぶんを演じて生きていくことが幸福なのか
期待される像ではないほんとうの私の素顔なんてあるのか
世界の脇役として、小さいけれども確かな幸せを求めることは可能か、それでいいのか
わからないよ
演劇を考えてみたい
経済を考えてみたい
わかってもらおうとして言葉を尽くすことをすべきなのか
尽くすべきだと思うけど、「このひとにぼくのことをわかって欲しいな」と思わない人もいる
だから場合による
でも、立場を鮮明にしてきたし、僕はみずからの立場の変遷を隠そうとしない
そういうのはダサいとおもうからだ
ぼくは恥ずかしい過去を否定しない
ダサい人間よりいくぶんましだ
人類社会にとって進歩は正しいのか
成長は必ずしもただしくない
成長すればいいけど、でも成長だけしていればいいわけでもないんだ
成長を求めて、他人を蹴落とすのは誤りだ
技術とはなにか
飼い馴らすことだ
飼い馴らすことは、都合のよい顔を向けることだ
飼われること、飼うことは一種の契約だ
それは破棄できる
『サドとマゾッホ』を読みたい
科学とはなにか
わからない
文明とは何か
自然に対する態度のひとつだ
博物の蒐集だ
暗がりにある事物を理性の前に明らかにすることだ
現代は文明に対する懐疑の時代である
現代化とは、世界を一望できる遊園地の観覧車からディズニーランドにおける登ることの出来ないシンデレラ城への移行だ
自分の位置をもつこと、すべての人が脇役として生きること??
芸術
圧倒的な自由とは美ではないか
創造性を僕たちは狂おしく求める
創造的でありさえすれば!
美とはなんだろう
誰しもに求められることだろうか
誰しもに求められることを美と呼ぶのか
誰も省みない美はあるか
太陽と死はじっと見つめることが出来ない
本当に美しいものは見えないのではないか
献身は美しいか
ぼくは美しいと思う
ぼくはグスコーブドリは美しいと思う
この不完全な醜い世界よりも、「私抜きの理想郷」を求めること
それは倫理だろうか
ぼくはかつて倫理をよき者たちに代わって彼らの不在を補って状況に介入するエージェントとしてここに存在することとした
よき日々のあとに
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10785727202.html
ではさらにどのようにしてあるべきか。
それはよき者たちに代わって、彼らの不在を補うことによって、と答えられる。
ぼくが彼らの代わりに、彼らの不在を補って、状況に介入するエージェント(代理人=触媒)である。
本来ふさわしくないぼくが彼らの代わりにここにあること、それをぼくは倫理と呼ぶ。
『Kanon』の月宮あゆも、『魔法少女まどか☆マギカ』のまどかも自己犠牲を選択した
後者におけるほむらは、この「エージェント」である
絶対的な善さを諦めること、純粋な原点における理想を、放棄すること、その敗北
『あしたのジョー』みたいだ
真っ白に燃え尽きること以外に革命はありえない
決して現在化しない時間を革命と、呼んだ人々がいた
でもそれをぼくは諦める
それはさきのクソみたいな現実主義とは異なる立場である
奇跡も魔法もあるのである
それを「可能性の芸術」と呼ぶ
現実の柔らかさを、私自身の可塑性を、かつて浪人期のぼくは、死ぬほど欲しがった
ぼくは変わり得るだろう
世界は変わり得るだろう
きっと私たちは別様のあり方をもって会うだろう
僕の為に世界の可能性が失われるくらいなら、僕抜きの柔らかな世界であって欲しい
救済と音楽
世界を言祝ぐこと
これで、よい
*
自分の言葉に責任を持つというのはそういうことではないかと思うのだ。
自分が書いたものと心中できないならはじめから黙っていた方がいい。
黙ってじっとしていれば大抵のことはやり過ごせるだろう。
人生もまた例外ではない。
冬の入り口のどこまでも透き通った薄紫色の夕暮れなるもののやや重たいまぶた
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10693985279.html
「いつかは失われるものにたいした意味はない。失われるべきものの栄光は真の栄光にあらず、てね」
「誰の言葉?」
「誰の言葉かは忘れたよ。でもまあそのとおりさ」
「世の中には失われないものがあるの?」
「あると信じるね。君も信じた方がいい」
「努力するわ」
「僕はあるいは楽観的すぎるかもしれない。でもそれほど馬鹿じゃない」
「知ってるわ」
「自慢してるわけじゃないが、その反対よりはずっといいと思ってる」
(村上春樹、『1973年のピンボール』、講談社文庫、2004年第1刷、147頁)
見えるもの、硬質なもの、構造的なもの、静的なもの、明るいところにあるもの、触知できるものはそれほど危険ではない。
問題は、そうではないものの方だ。
どこからともなく個人の内側に入り込んで、どんなにかゆくてもむしり取れないほど深く強く一体化してしまうような種類の、そぐわないもの、異質なもの。
それをぼくたちは習慣的に「霊」と呼ぶ。
でも本当に普遍的で人間を惹いて已まない「真なるもの」というのはこちらの方だ。
「「成熟性/有責性/現実性」とは全て同一の事態である。」とぼくは書いた。
「知行合一」を参照して、ここに知性を書き加えたい。
「真知はすなわち行いたる所以のものなり。行わざればこれを知というに足りず。未だ知りて行わざるものあらず。知りて行わざるは只これ未だ知らざるなり。」
知るとは行うということだ。
でも、知行合一は原理ではなく、マナーあるいは相対的な価値として、ぼくはとりあえず扱いたい。
知は収斂するか?
ぼくのようなひよっこではぜんぜんわからない。
知って、しかしなおかつ、行わない、という一群の人々がいる。
ぼくはそれをここで見た。
ぼくは彼らを(あるいはあなたを)必要なだけの知性がないとは思わない。
にも関わらずできない(ここがロドスなのだった)というのはすなわち、臆病だということだ。
ぼくとしては、ここではもうひとつ、重要な徳義のリストに「勇気」を付け加えよう。
恐らくみなさんはそうではなく、むしろぼくの方をデリカシーを欠いた反社会的な、野蛮な人間だと判断なされるだろう。
一向に構わない。ぼくはせめてタフぶらせてもらうよ。
「真なるもの」を語るということは面倒ごとをしょい込むということだ。
それはぼくにだって幾分はわかるよ。
でもある種の礼節を踏みにじる人間と、ぼくは友だちにはなれない。
沈黙?そりゃもっと悪質だろう。
風見鶏に一体何ができるって言うんだろうか。
みなさんが見たとおり、ぼくはある方向を持った思い上がりと侮りとうぬぼれを抱えている。
でも、ぼくという人間は、こうした要素も含めて、なにがどうなっているかわからないほど混線したひとつかみの傾向性の束のことなのだ。
ぼくは刻々と変わるだろう。完膚なきほど変わるだろう。
だが、確かに変わらないものがある。
それが好ましいかどうかはまた別の問題なのだ。