メモ:『現代における人間と政治』01 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

斜め読み終了

とりあえず章ごとに副題をつけてみる

あとで変えるやも知れない

厳密な要約ではなく、僕の理解なので間違っている箇所がある場合があることを断っておく

ただし、もちろん、僕の意識の上では正しいということになっている


一「逆さの持代」

二「グライヒシャルトゥング」

三「端緒に抵抗せよ」

四「内側の異端者」

五「ステレオタイプ」


『独裁者』につぎのような場面がある

What time is it?

飛行機はさかさまに飛んでいるのだが、雲海の中にいてそのことがわからない

チャップリンが時計を取り出すと、たちまち、鎖からにょっきりと眼前に聳え立って彼を脅かす


チャップリンは映画作品のなかで、現代を「逆さの時代」だと答えているように見える。

ふつうと反対のことがときどき起きているな、ひとの認識や評価が狂っていることがあるな、というような個別的な事象を越えて人間と社会との関係が根源的に倒錯している時代である

言い換えると、倒錯が社会関係内部に構造化されている時代である


囲いの中に羊が追い込まれるシーンに労働者が工場に出勤するシーンを被せた『モダン・タイムス』冒頭はそうした倒錯の最初の暗示だろう

労働過程における機会と人間の倒錯だけでなくて、「人間の自己疎外」の様々の局面を戯画化したのだ

テクノロジーによる深層心理の開発と操作を想起しよう

(これは、今日で言えば、マーケティングによる消費者の欲望操作と言うほうが明瞭だろう)

食事という人間のもっとも原初的な「自然」の欲求さえも、能率のための能率の崇拝によって自由な選択を奪われる

さらにいえば自由な選択を奪われるというのを通り越して、商品購買から指導者選出まで「自由な選択」そのものが宣伝と広告によって造出されるのだ

かつては「再創造(レクリエーション)」という意味づけをあたえられていた娯楽やスポーツまで巨大な装置となって大衆を吸い込み規格化する

プロデュースとは現代では価値の生産ではなくて、なにより価値の演出なのである。

(鋭い指摘!)

そして神話と科学を満身にちりばめた二十世紀の独裁者こそは現代最大の「演出」者でありそこでの政治権力の自己目的化は現代文明における手段と目的の転倒のクライマックスにほかならない


What time is it?というシンボリックな問いは、たんに現代がさかさまの時代であるという指摘にとどまらない

とくに飛行機の場面の重要な暗示は、「逆さの世界」の住人にとっては、逆さの世界が逆さとして意識されないということなのだ

倒錯した世界に知性と感覚を封じこめられ、逆さのイメージが日常した人間にとっては、正常なイメージがかえって倒錯と映る

非常識が常識として通用し、正気は反対に狂気として扱われる

意識を喪失しているうちに世界が一変したことを知らない床屋は、知らないがゆえに、きわめて普通の常識に従って、普通に行動する


ユダヤ人の店先に勝手に「ユダヤ人」とペンキでぬりたくるのは非礼であるから、平然と突撃隊員の前でそれを消す。何の罪もない市民や婦女を集団的にいじめるのはギャングのしわざだから、かれは義憤を感じて制止しようとする

かけつけた突撃隊員を彼は警官と思って乱暴者をとりしずめてくれと訴える


彼の行動はどれもきわめて自然なのだが、この世界ではとんでもない無鉄砲か異常な勇気を要すること、いずれにしても不自然なことであり、ちぐはぐさが私たちの滑稽感を誘う。

この滑稽感はベルグソン流に言えば、床屋の世界の出来事に私たちが情緒と共感をもってではなくわれ関せず焉の見物人として、「純粋理知」をもって対していられるからである

日常性の倒錯は自然の流れのこわばりを示すから好んで喜劇の題材になる

役割の交換もなにとなにがいれかわるか観客に自明であるから笑いになる

が、『独裁者』の倒錯は一見するより複雑だ

あのときのあの世界における日常性を所与とすれば、床屋の行動は転倒しているが、じつはその日常性じたいが「逆さの世界」における日常性だとすれば、転倒しているのはトメニヤ国の全体であり(たぶん床屋の住んでいるゲットーの世界)、まっすぐに立っているのは床屋とその周囲のほんのひとにぎりの人間に過ぎない

私たちは一体どちらの日常性の側からどちらの倒錯を笑っているのか

現代における日常感覚の分裂の問題における滑稽感はほとんど痛苦感と背中合わせになって私たちに迫る


もっとも、六十年代からみると、あんなあからさまな正気と狂気の転倒は、そんなトメニア国、いや枢軸ファシズムの時代の一場の悪夢に見える

現代はあの時代と違う

日本だけでなく西欧の知識社会でも、「イデオロギーの終焉」と叫ばれている

だがはたして現代、政治的良識はそれほど自明さを取り戻しているか

(一貫して、「現代」とは六十年代である)

イギリスの核武装の一方的廃棄運動は、アメリカのポラリス潜水艦の基地貸与協定に対するかつてない規模の抗議集会に発展し、デモ隊は会場のトラファルガー広場から行進して国防省前に坐り込み、数百の逮捕者を出した

終始この運動に立ったラッセルは八十八歳にしてつめたい舗道に坐り込む「異常」な行動をとったが、次のように書いている

「一番公平とされているある新聞は一方的核廃棄論に対する反対こそが「正気の声」だと述べた。わたしは正気は核廃棄論の側にあり、核廃棄反対論者のほうこそヒステリーだという手紙を書いたが新聞は掲載を拒否した」

つまり言論の自由の国イギリスでも核廃棄論は気狂い沙汰というイメージを通してしか大多数の国民の耳に入らず、また許されないというわけである

(もちろん、今日における原発反対について想起される)

アメリカでも広島原爆投下に関与したイーザリーが罪責感から始めた核兵器反対運動が「その筋」によって狂人扱いされ、精神病院の「証明」書つきでついに精神病院に入れられた。

これもラッセルに拠れば、かれは全く正気であり、すくなくともトルーマンよりはるかに正気なのである

ラッセルは憤りをぶつける

「このさかだちした世界では、人類全体に対して生殺与奪の権をにぎっているひとたちは、名目上は出版や宣伝の自由を享受している国のほとんどすべての住人に、誰であれ人類の生活を守ることを価値ある事柄と考える人々は狂人であらねばならぬと説得する力を持っている。わたしはわたしの晩年を精神病院ですごすことになっても驚かないだろう、そこでわたしは人間としての感情を持つことができるあらゆるひとたちとの交際を楽しむことになるだろう」

こうした声にもかかわらず他方では「CBR(ある種の大量殺人兵器)のおおきな利点は住民を探り当てて殺してしまいながら、しかも同時に大都市や工場施設を破壊しない」などということが大真面目に「現実的」な議論として「識者」の間に交わされている

床屋と仕官を乗せた逆さ飛行機はどうやらきょうも延々として雲海の中をとびつづけているらしい


長い!まずここまで