胸のつかえがとれたような、すっきりとした気持ちになった。
とにかく、なるべくわかりやすい言葉、ひとに伝える言葉、きっちりと練り上げられた言葉を目指していこう。
僕はどういう人間であるのか、どういうことをしようとしているのか、なぜそれは僕の理想になりうるのか、理想としてなぜ正しいのか、書くべきだと思う。
繰り返し同じ話をしてもよいだろうし、焦ることはない。
わかりにくいことや失敗、誤りを恐れない。
誤らない者は何もしない者だけである。
卑屈になったり、引け目を感じたり、鬱々とおなじところを歩き回ったり、そういうこともたまにはいいだろうけれど、基本は前を向くことだ。
前がなくては、左右も後ろもないのだから。
僕は人を育てること、人が育つこと、育って互いに交流し、歓び合って、文化を創造していく。
そういうことが一番大事だと思う。
国籍も人種も年齢も性別も職業も出自も大した問題ではない。
(人が育つところ、についてはまた書く)
人間は他者との関係を育てていく。
その中で自分の卓越した性質をいよいよ拡大する、実現する。
けれども、拡大した自分自身に固執してはいけない。
自分の成長の過程で手に入れたもの(能力・資源・地位・財貨など)は他者に気前よくどんどんくれてやる。
くれてやること、贈与によって、他者が育っていくことを助けられたら、とてもよい。
そういう交通・交流・関係がよい。
「主体・対象・関係」または、「僕・他者・関係」、どこに焦点を合わせるかで現れ方、見え方は変わってくる。
けれども、みっつのことは、つながっている。
力は互いに行き来しているのであって、完全に独立・孤立・自律した閉鎖的で完全で、環境の影響から自由な項は存在しない。
それは、僕は、誰の前にいるときか、によって、どういう僕であるのか、顔やふるまいが変わる。
または同じ人の前にいてもそれがどういう「肩書き」「役割」の場合か(関係であるか)、によっても変わる。
そういう程度の意味である。
力に対して力をぶつけることと、力に対して力ではない仕方で応じること(技?)は異なる。
それがどう異なるのか、見たことはあるのだけれど、理解できていない。
とてもむつかしい。
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『ネオリベ化する公共圏』と『丸山真男セレクション』を読んでいる。