今日の学生運動について | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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現実の運動はその担い手たる私たちの意識とは無関係に、歴史的な規定を受けていると考える。そこで、セクトと新左翼、そして今日の社会のあり方に至る道筋についての僕の認識を簡単に書く。単純に間違っているところもあるかもしれない。念のため書いておくと歴史というテクストについてのある解釈であるから、相対的であると共に、そのつど意識への現れは排他的・唯一的であるために絶対的である。


【今日における運動の前提たる歴史的規定】

・新左翼01


スターリン批判によってソ連の矛盾が明らかになってくるに連れて、唯一的前衛党としての共産党に対する疑い、批判が巻き起こる。その学生組織である民青によって牛耳られている各大学の自治会は反スターリニズム・反共産党学生たちに「ポツダム自治会」として拒否された。


各大学の自治会を束ねた全学連に対するカウンターとして全共闘が成立した。全共闘はまさに、ノンセクト性を強く持った運動体だった。


しかし、(元々はレーニンに由来する)前衛党思想自体は必ずしも失効しておらず革マル派・中核派・解放派などの新左翼党派も生まれている。


・新左翼02


68
年前後の学生運動隆盛期に提起された重要なトピックがマイノリティー問題である(特に、7077日華青闘告発)。これは「ひとたび革命が起きさえすればマイノリティー差別という「傍流」の問題も同時に解決するのだから、革命に資するかどうかという単一の基準を適用し、高く評価された運動にのみ、限られたリソースを集中して配分すべきである」という考えを批判したものである。


・市場主義と政治の縮減

小泉構造改革路線以降、社会の無菌化・美化・監視管理化の進行が止まらない。「疑わしきは排除せよ」という原則が採られている。野宿者排除、風営法によるダンスクラブ弾圧など、整然とした街路に「生活」の根を下ろしているものをみな取り除いてしまう。この傾向の延長に大学キャンパスの規制問題も存在していると認識すべきである。

 また、グローバル資本主義こそは68年の左翼運動において叫ばれた主張が叶ったものであるとみることもできる。

第一に小泉元首相は中間共同体・部分結社・利益団体を「既得権益層」と呼び破壊しつくした。これらの組織ならびに対応する政治的形態である「議会制民主主義」は、私的な利益関心をある程度まとめた人間集団に過ぎず一般性・公共性を欠くとしてラディカルな民主主義の立場からは斥けられるだろう。その帰結は「小さな政府」路線であり、私的利害に基づく政治的意思決定をできる限り縮減した市場原理主義である。直接民主主義の実現は「自己選択」と「自己責任」の経済的自由主義であった、という訳である。

第二に、マイノリティーへの政治的配慮、すなわちポリティカリーコレクトネスである。ハラスメントは厳しく取り締まられる。在特会によるヘイトスピーチに顕著なように、意思を声高に主張することはしばしば暴力的であり弱者を傷つける可能性を内在している。そうしたハラスメント、摩擦をどうやって防ぐのかということを社会工学的に実現したものが「住み分け」、「セキュリティーマンション」である。主体たちが出会い、潜在的に暴力的な言説を互いにぶつけ合い、相手の承認を勝ち取って代表意見を形成していく、そういう弁証的な過程は「政治的に正しくない」。


【今日の学生運動の困難】

さて、では、以上のような歴史認識を踏まえたうえで、今日、学生運動はあるべきなのか、あるべきであるとすればどのようにあるべきなのか、考えてみよう。

まず、学生運動はあるべきであると考える。一言でいえば「政治の縮減」・「生活の排除」はまっすぐ、「文化の衰退」につながっていると考えるからだ。ただし、この際には学生運動とは「政治の拡大」・「生活の回復」を求める「旧に復する」運動であって、右翼運動であるかもしれないことは留意すべきである。右から左までのすべての政治運動体が大連帯して「政治文化の社会的土壌」を回復し(闘争のための闘争!)、追って、諸問題を解決することを目指すそれぞれの政治運動を行う二段階が必要だと考えている。

では、それはどのようにあるべきなのか。これが困難である。目的性(闘争性)と関係性(コミュニティ性)の対立、組織性と個人性の対立について考える。

「ひとたび革命が起きさえすればマイノリティー差別という「傍流」の問題も同時に解決するのだから、革命に資するかどうかという単一の基準を適用し、高く評価された運動にのみ、限られたリソースを集中して配分すべきである」という考えではない方法はあるのだろうか。「蟹は己の甲羅に合わせて自らが潜る穴を掘る」という。ある運動体が実現しようとする現実の関係性はその運動体内の関係において先取り的に実現されていなければならない。これである。運動体の成員の評価が達成目標に資するかどうかというメリトクラシー一辺倒になってしまうのは完全に人間を手段化・道具化する思考であって、これは斥けられなければならない。

しかし、さらに言えば、政治運動の主体としての組織は、どんなに政治的に正しい配慮を張り巡らせたとしても、言説を形成し他者に承認させ現実を変容させようとするものである限り、そもそも暴力的で抑圧的な存在である。ナイーブに響くかもしれないが、エヴァンゲリオンの碇シンジよろしく、人々は声を挙げるよりも退去することを選んできたし、現在もそうしている。その身近な例が体制迎合的な無気力学生・ノンポリ学生である。

 僕の考えは、己の抑圧性・暴力性を自覚し、しかし敢えて政治的主体(組織)を採るべきである、それを極力無害化することを目指すべきだ、というあたりになる。



【じゃあどうするのか】

僕は社会のレベルでも、大学のレベルでも、中間共同体を再生していくのが一番いいのではないかと考えている。そして再生した中間共同体でその成員に「政治的なもの」に対する理解や知識を教育してもらうのである。大学で言えば、息のかかったサークルをたくさん作る、サークルとのコネを使って学生たちに、学生運動に対する理解・知識を植え付けていく。だからこそ、サークル設立・活動支援をしようとしているのである。ゆくゆくはサークル単位の組合・自治組織のようなものを形成して大学政治にコミットできれば、と思う。