グラムシ、マルチチュードじゃだめだ
ポリティカリーコレクトネス的な、実践の否定に帰結するばかりだ
(シニシズムはくたばれ)
「マルチチュードは出会わない」
結局、監視管理体制の強化拡大を許してしまっている
ヘイトスピーチへの「カウンター」としてのみかろうじて現象している
ジジェクはイデオロギーを恐れるなという
どういう方法がありうるのだろう
ぼくはナショナリズムしか見つけられていない
しかしそれは民族主義、国家主義ではなく、国民主義だ
レスワースとしての天皇主義
三島=宮台のもつジョーカーは強い
代表制「民主主義」国家
経済的のみならず政治的自由主義・実質的民主主義・平和主義の三位一体
これをアジア主義のほうに引っ張って、世界警察としての米国への対抗軸にする
そのメディアとして武道を経験している
恒常性を担保する共同性として師弟関係を選択する
しかしそこには(具体的に)無数の問題がある
私たちはヨーロッパという「歴史」的経験を忘れてはいけない
反省的理性を捨てない
世界共和国主義と天皇主義の接木、武道と西洋近代思想の接木
まだわからないがどちらかが「消滅する媒体」である
ぼくが向うのは右でも左でもなく前である
前方、理念に向うという意味では左翼である
そもそも、内田樹を読んだところから始まった論理的な系であるとも思う
教育
歴史と文化(言語)
○政治的立場
左右をわけるのは、人間に対する信頼の違いだと思う。人間は(自由の条件としての)平等と平和を求める理性的な存在だと考えるなら左、そうではないから教導する機関が欠くことができないと考えるのが右。というか浜野さんが仰ていたのか
原始共産主義、資本主義による血縁共同体からの個人解放、修正資本主義に帰結する社会主義、共有財産制度の否定としての共産主義。最後の共産主義における「無法な自由」の制限としての「計画化」って具体的にどんなものなのだろう?わかる人います?スターリニズムではないと思うのだけど。
スターリニズムに代わる素敵なアイデアが出てくるまで「実践」してはいけない
革命以前の関係が革命以後の世界における関係の先取りでなければならない。これは、資本主義を共産主義へと漸近させ、限りなく近づいたその瞬間に共産革命を起こすということになる。限りなく修正資本主義的社会主義に近い
だから、暴力革命ではなくて代表制民主主義を採ることになるこれは何よりも、国家の堅固さに対する警戒に由来する。
スターリニズムに必然的に到るすべての排他的前衛党を拒否する
役者が揃わないとエンディングに辿り着かないという奇妙な確信がある
あるいは、そういう社会を理想としているのかもしれない。各人の自由な発展(個性溢れる役者が参加すること)が万人の自由な発展(エンディング)の条件となるような協同社会(物語)。
恋愛資本主義的な、貨幣経済に回収されてしまう性風俗産業ではないような、政治的な出会い。物化された所有関係としての男性中心的なセフレではない、交響的ソフレ
ソフレは「現実的」である
脱恋愛論とアイドル論、恋愛資本主義論を読もう
本田透の電波男
来るべき世界
共同性
教育⇒社会
現在、初等・中等教育の基本的な在り方を定める学習指導要領において、教育の目的は「生きる力」の養成にあるとされています。
大学は研究機関であるとともに、やはり教育を司る場なのでもあって、中等教育の延長に位置するものであることに相違ありません。大学においても「生きる力」の完成が目指されます。教科の講義のみならず、サークルを主とする様々な課外活動もまたその学習機会として捉えられるでしょう。
生きる力とはなんでしょうか。
生きる力とは、より複雑性を増した現代社会において異質な他者と意思疎通を図り協働して多様な価値を生産していく力ではないでしょうか。その根幹となる能力こそ「伝える力」であると考えます。
伝える力、異質な他者とコミュニケートする力を養成しようとする私たちの立場は、気に食わない人間を予め排除してしまうようなフィルタリング的思想を斥けます。異質な他者とのコミュニケーションとは、閉じた輪の中に満足して、気心のしれた仲の良い友人たちとの、安心で安全な友情の確認作業にのめり込むことではありません。
もしかしたら自分に敵意を向けるかもしれない、底のしれない危険な人間を相手に、根気強く対話を続け自分の考えを認めてもらい、自分一人の考えから複数の人間を代表する言説へと育てていく、そういう弁証的な過程の総体を「政治」と呼ぶことにします。
人間を社会的存在としての人間に形成する、政治へと駆り立てていく「伝える力」の養成。それが国際政経会の本務です。
予備知識ゼロの人に噛んで含めるように説明するオリエンテーションじゃつまらないです。 逆に講義の特権的正統性がもはや困難なのです。先生は偉いという信憑のことで、講義も学生の勉強会も変わらないじゃないかということです。サークルでは先生の指名を自分でできる分優れているかもしれないとさえ思います。サークルにはシラバスがありません。いずれも、上位権力がなく自由ですはい、国家や大学当局の媒介のない直接的な出会いであるという意味で、先ほどの「政治」の実践なんです。教育学部生としては、市場価値に還元されない教育そのものの愉悦を知っている「教授」が多少でも残っていることを希いたいです
早稲田教育もデューイ主義が強い、と言っていたような
出会う空間、学ぶ場
失敗が許されているところ
○外山、第四次世界大戦仮説
世界内戦
警察活動が即軍事活動である
国家主義
治安強化
テロ対策の監視管理体制強化
美化無菌化
笠井さんの本もいくつか読んでみる
語学が出来る人がロールモデル?
ハワイでウエディングコーディネーターをしている英語ペラペラでバリバリに「自己実現」しているキャリア・ウーマンが「勝ち組」?
社内公用語英語はダサい
人間は構造的に言語の外部に出られないのだから、日本語ー学は「宗教的趣味」以上のものではないと思ってしまうのだが、それはぼくが未熟なのだろうかどんな音がどういうふうにある意味を指示するものの構成要素となるか、は全く恣意的なものなのであって、ちっとも興味がわかない。どうでもよくないか?幼稚園児がごっこ遊びで、木の葉を貨幣にしようが石ころを貨幣に見たてようが、そのちがいに興味湧く?いま、たまたまそうなっているものを記述したら「科学」なのか。その真理観は、観察する主体の権力性を覆い隠さないことには成立しないのではないか「文学」ー史もそうとう下らないが、語学は学の水準に達していないのではないか?語学は、プラグマティックな有用性という唾棄すべき市場的価値以上の深奥さを持たない。語学は男子一生の仕事にあらず。語学力と、反省的認識という理性作用とがどちらかして選べないのなら「人間」として迷わず後者を選ぶ。語学が伝達手段なら、目的に当たるところの伝達されるべき思考はもちろん後者に帰属するからだ。動物も動物的言語をもち、動物的な「豊かな」世界をもつ。非常に結構。言語論一般を否定するのではないけど、少なくとも「日本語学」なるものは恐ろしく下らないと考えている。私たちは起源から遅れている。その反省で十分ではないか?少なくとも、学としてなぜ可能なのか、三分くらい考えてほしいんだよね。「いずれも魚の象形であるが、それぞれの特徴がよく現れている」なんて無反省な記述を読まされるとゲロ出そうになる
グローバルスタンダードとかグローバルな感覚ってマジで理解できないんだけど、一体どんな価値規範を内面化したひとなんだろう。ビーフかフィッシュならどっちを選べばいいんだ?ビーフか?
熟女芸人はラディカルだな、とふと思った。健康・美容ばかり追い求める脱政治化された非―社会
歴史の終焉
口裏を合わせたのではないのに、多くの人々がまるでそうしたように連動・協働して状況が形成されてしまったように見えることがある。陰謀論者に欠如しているのは、自己に対する知的抑制です。ここで想像力とは、逆説的ですが、想像された絵に飛びつかないこと、ですね
○サークルという共同性と監視管理社会
サークルと部活動の分断統治
記念会堂のサークルによる利用は「震災後の安全確認のため」許可されなくなった
意味不明
特に、他校と試合をする競技系サークルはニュース的価値を持ち、宣伝になるので公認化・部活化が早
い(例、アルティメット
もちろん、当事者の学生の努力を否定するものではない
対当局的な「美しい」サークル運営がすげーメンドクサイのは事実
当局は学生の課外活動を食い物にしている
当局お気に入りの商業的価値の高い(宣伝になる)サークルと、そうでないサークルとの差別化
早慶戦で当局が回収している「商業的価値の高いサークル」は、グリークラブ、ショッカーズ、放送研究会か。応援にラテンのリズムを入れたいならラテアメ呼べばいいのに。
共同性の再生
「がんばろう日本!」のナショナリズムへの回収を避けた延長に福島を切り捨ててしまうのはなにか間違っていますね。ナショナリズムではない隣人愛ってどういう基礎付けがあるでしょうか…
民族・血縁共同体ではなく社会
○美について
意味を麻痺させ、全体性へのアクセスを可能にする「文化」
無限の垣間見
芥川の『蜃気楼』を論じていて美が問題になった。「「話」らしい話のない小説」を小説に押しとどめるのは、美への志向としての色彩という局所的な構成的配置である、とした。そこでは超越的な同一性はフラクタルな相同性へとシフトする。
美はなぜ乱調にあるのか、だっけ?
分裂していくマルチアカウントな私の諸人格を束ねようとする志向が倫理なのだ。実践としての表現は、兼ねている諸サークルを重ねていくことではないか?それこそ、主体と主体とが出会い言説を闘わせ乗り越え、代表=共同幻想を形成していく弁証的な過程、すなわち政治である。
差異=分裂よりも解離=相同性のほうがマシ
マルチ帰属とアカウント的存在
言語にとって美とは何か
○無気力学生、「政治」の追放
歴史・社会・人間の終焉?
早稲田ナショナリズム⇒当局無謬信仰⇒管理主義肯定の流れは無気力学生より悪質
革命原理としてのナショナリズム。当局権力の由来が本当に謎なんだよね。興味ないのはわかるけど、当局に反抗する人間を端的に否定するのはなぜかな。総長を選挙できちんと選んだわけでもないし…
空間に対する責任というか、公共性の感覚が致命的に欠如しているのだと思う。大学解体・大衆化は完全に実現していて、もはや学生はみな「12歳の少年」なんだろう
「わかってもらおうと思う」とかではなくて、僕ちゃんにはすこーし早かったね、って感じ。彼らは政治を受け入れる「ため」の基本的能力を身につけていない。政治のための政治、闘争のための闘争はほとんど子守である。今の普通の学生たちは素直だから講義にも出席するし、そういうものだから就活もこなす。よくできまちた
民主主義的立法による自己決定から自動生成する規則による排他的統治
トルコみたいに、労働者と学生の連帯が実現するような社会の政治的土壌を日本にも形成したい。
政治的土壌=社会
社会を支える条件としての三権に対する判断力と理性を兼ね備えた「成熟した市民」の創出を目指す活動こそ「教育」
教育⇒社会⇒政治⇒福祉
○固有の時間を喪失している
集英社文庫『家族ゲーム』の、高橋源一郎さんによる解説を立ち読みしてきた。
タカハシさん曰く、小説にはリズムがあり、時を経るにつれてより強い刺激を求める読者に応えて、より速くなりつつあることが確認できる。家族ゲームは慎一による・のための青春小説だが、独特の、悲痛なエモーションを私たちに与える。
その奇妙な感動は、父・母・弟・家庭教師のそれぞれがリズムをもち、前へ前へと相争いながらもからみ、馴染んで一つの音楽を奏でていくのに対して、慎一自身はそれが許されないこと、青春という固有の時間を認められないことに由来する
僕は知識ではなく知性が欠落した人間を馬鹿と呼んでいる。知識が項なら知性は文脈である。アイロニーが通じない人間は馬鹿だ。
政治?
中心・周縁的な弁証法的な、前時代的な、ジャンプ的な…
固有時との対話
○安倍政権
文化的保守主義と経済的自由主義が分裂を始めた。伝統性、体制性、家父長性、どれをみても前者が右翼だと思うが…
渋谷における安倍首相演説と反TPPデモ隊の衝突はローカルな文化的保守主義とグローバルな経済的自由主義とが袂を分かった分水嶺にあたる象徴的な出来事として記憶されることになるだろう。
○文化的保守主義?
ネトウヨ
ヘイト・スピーチにおける表現の自由について、議論をまとめた文献あれば読んでみたい。デモする自由も否定できない。僕の政治の定義からすると、すべての人は主張し自己実現する真の自由を得る代わりに聞きたくない話を聞かされるリスクを引き受けなければならない。
在特会のデモに対する嫌悪の中に、デモそのものに対する嫌悪を感じる。政治的なもの一般を拒絶してしまうことは間違っている。
政治を拒否するなら、何が悪いと「言う」ことはできない。「思う」ことはできても、口を噤んでおとなしく暮らしていく他ない。それにたぶん、ほんとうは、言うことができなければ思うことさえできない
ヘイト・スピーチ、差別デモって、左翼にとっての?躓きの石であると思う。自由と、平等・博愛との矛盾がある。
「差別的表現」を根拠に逮捕が可能なら、その線引きが問題になる。構築された「傷ついた被害者」を錦の御旗に、気に食わない人間すべてに「反社会的抑圧者」というレッテルを貼ることを認めるのは危険だ。
平和な「普通の市民」によるカウンターデモと、しばき隊というアウトソーシングされた実力部隊との二重化(分節=共犯)
しかし、参加に濃淡をつける、全か無かではなくグラデーションをつけるというのはこういうことだ