芥川の『蜃気楼』を論じていて美が問題になった。
「「話」らしい話のない小説」を小説に押しとどめるのは、美への志向としての色彩という局所的な構成的配置である、とした。
そこでは超越的な同一性はフラクタルな相同性へとシフトする。
分裂していくマルチアカウントな私の諸人格を束ねようとする志向が倫理なのだ。
実践としての表現は、兼ねている諸サークルを重ねていくことではないか?
それこそ、主体と主体とが出会い言説を闘わせ乗り越え、代表=共同幻想を形成していく弁証的な過程、すなわち政治である。
思春期ポストモダンを読み終わった
ネオリベの精神分析を読んでいる
68年史観ともマッチしそうだし、恒常性と再帰性の議論は、同一性と差異とをめぐるぼくの議論を裏打ちしてくれそうだし、形式的合理性/実質的合理性の議論は文化相対主義における原理主義の再入室の話と重なってくると思う
68年史観については、スガ秀実「1968年」と大塚英志『「彼女たち」の連合赤軍』参照のこと