教職課程の一環で、都内のある特別支援学校に介護等体験活動のために伺わせていただいた。
生徒たちとの交流は本当に楽しく、彼らの吸い込まれそうな、どこまでも澄んだまなざしの前に立ったとき、やわらかな(脆さ=柔軟さ)若い生命が伸びてゆく、その傍に寄り添う教育者としての取り返しのつかない責任(≠義務)が、ずっしりと、肩の肉と骨とを引きちぎらんばかりに食い込む重さを感じると共に、ぼくのなかの世界に対する原的な信頼のようなものが不思議と癒されていくのを感じた。
ぼくの個人的な問題として、後者の感覚は、一年の春に菅谷さんたちに連れて行ってもらった京都へのヒッチハイク以来、はじめて味わったものだった。
一般的信頼、というそうだが、はじめて会った人を信じることが出来るか?
ぼくはできる、と思う。
信じることは獲得的な能力であるとともに、関係によって構築される(あるいは関係を構築する莫大な社会的コストの上に可能になる)性質である。
しかし本当にくたびれた。
全体を視界に納めようとして気を張っていること、そして、肉体的な過酷さもある。
元気な生徒たちにあわせて、先生はずっと駆けずり回っている。
いや、あるいは、ほんとうは走る必要はないのかもしれない。
走らないで済むような対応があるのかもしれない。
けれども、ぼくにはできなかった。