芥川龍之介『蜃気楼』
「芥川アイロニズムの二重性―絶望ゆえの、そして、希望ゆえの」
1.はじめに
本作品を「「話」らしい話のない小説」の典型として、私は読んだ。題の「蜃気楼」のように終始焦点のぼやけた夢の中を漂うような描写が続き、不安と焦燥が渦巻いている。『蜃気楼』について考え続けていると、こちらの神経も参ってくる。芥川における「人間性の解体」、「ニヒリズム」という固められた読みを越えて、掬い取ることのできるものが残っていないか、目を凝らした。
2.書籍情報
初出:『婦人公論』昭和二年(1927年)三月号
※本論においては、新潮文庫八十七刷(平成十八年十月)のものを使用する。
3.前提:芥川が「「話」らしい話」を選ばない理由
芥川は「「話」らしい話のない小説」を最も詩に近い小説、純粋な小説であるとする。
まず、「「話」らしさ」とはなんだろうか。「「話」らしさ」を物語性と呼ぶことにしよう。物語性とは「構成」・「筋」である。物語性のある小説の典型は探偵小説である。探偵小説の読者は事件の真相がすべて明らかになったときにカタルシスを得る。小説を構成する全ての要素が伏線としてある方向へと向けて配置されている。小説の全体が収斂する結末に近づくほどに興奮と緊張が高まっていく。その目がけられる方向、収斂点が「消失点」である。そうした物語性抜きの小説、詩的小説がより本来的な小説の原像であると芥川は言う。だが物語性抜きで小説として成立してしまうのなら、どんな文章でも小説として差し
出せば小説になってしまうのではないだろうか。そうではない、と芥川は言う。
「「話」らしい話のない小説は勿論唯身辺雑事を描いただけの小説ではない」
芥川は画を例に引いて、物語性抜きの小説はデッサンではなく(最低限のデッサンのみを残し)色彩で描いた画であると説明している。つまり詩的小説においては、デッサンはなくても色彩がある。色彩によって美を志向する、というのである。「「話」らしい話」、物語性を持つ小説が消失点という無限遠方に位置する超越的収斂点をもつ遠近法絵画であるとすれば、物語性抜きの詩的小説とは印象派のような色彩絵画である。ヨーロッパで始まった印象派は、ジャポニスムの影響を受けているとされる。浮世絵などの伝統的な日本画は平面構成による独特の空間表現をもち、これにヨーロッパの多くの著名な画家が影響を受けたといわれている。この、「平面構成」ということは画が超越性、垂直的な構造をもたないということである。色彩は遠近、高低をもたないということを確認しておこう。
芥川において詩的小説がなんであるか、ということは直接に説明されないで、物語性抜きの小説、という否定=迂回をしてはじめて説明される。これはつまり単に、「色彩」という概念が不確かで疑わしいものであることを示している。私は、ここに芥川のアイロニーを見る。単純素直に詩的精神がよいから「「話」らしい話のない小説」を選び取る、というのではなくて、物語性のある小説を選べないから・選ぶべきではないから、そうする、という否定=迂回が隠れているのではないだろうか。『西方の人』に次のような記述がある。
クリストの一生は見じめだつた。が、彼の後に生まれた聖霊の子供たちの一生を象徴してゐた。(ゲエテさへも実はこの例に洩れない。)クリスト教は或は滅びるであらう。少くとも絶えず変化してゐる。けれどもクリストの一生はいつも我々を動かすであらう。それは天上から地上へ登る為に無残にも折れた梯子である。薄暗い空から叩きつける土砂降りの雨の中に傾いたまま。……
「天上から地上へと登る為に無残にも折れた梯子」。折れた梯子は「蜘蛛の糸」を想起させるが、梯子が折れてしまえば、蜘蛛の糸が切れてしまえば、みな地上に墜落するほかない。垂直的な上昇はもはや不可能である。詩的小説、色彩絵画的小説は超越性・垂直的な構造をもたないのであった。なぜ物語性を選べないのか、それは梯子が折れてしまうからだ。それでは、なぜ梯子は折れてしまうのか、新たに疑問を立てておく。
私は、『蜃気楼』を物語性抜きの小説、詩的小説の典型として読んだ。そこでは超越性(消失点)との直接的結びつき(物語性)が否定されている。相対性、水平性、中間性がこの小説の前提である。それを踏まえて作品の検討に入ろう。
4.色彩の例と芥川の不可能性
本作品には全体にわたって通用する幹ともいうべき物語性は存在しないものの、局所的な機能的配置によって、不安、恐怖などの感情を掻き立てる効果を狙った表現技法(=色彩)がみられる。作中、くどいくらいに繰り返し様々な錯誤、錯覚、想起などの「認識のズレ」が描かれている。それをすべて挙げてみよう。
一部
a)蜃気楼は大気圧の効果によって屈折した光が実際の風景を映し出した「虚像」である。
b)O君は「僕」が遊びに来たものと「勘違い」するが実際には蜃気楼見物の誘いである。
c)「僕」は砂上の牛車の轍を見て「逞しい天才の仕事の痕」を「夢想」し圧迫される。
d)「新時代」の服装をした男女が二組あったのを一組と「錯覚」する。
e)水葬した死骸につけられていたと思しい木札から、日本人の母のある混血児の青年を「妄想」する。
f)本通りにはたくさんの家屋があるが人通りとして現れていないことに「違和感」を抱く。
二部
g)引地川の川口のあたりの火かげから沖に漁に行った船だろうと「推測」する。
h)遊泳靴を土佐衛門の足と「勘違い」する。
i)「僕」の妻は鈴の音を、履いている木履の立てる音である、と冗談を言い「錯覚」させようとするが、実際には袂にある子供のおもちゃが立てる音である。
j)夢に観たトラック運転手は身体が男性で顔だけが「僕」の以前会った女性の顔であった。
k)星明りがないのに砂浜が光を反射することで、自分達の顔だけがぼんやりと浮かび上がっていることに「僕」は不気味な思いをする。
l)ポプラアの枝にかかった紙をヘルメット帽と錯覚したことを想起する。
m)通りすがりの男が咥える巻き煙草の火をネクタイ・ピンと「錯覚」する。
これらはすべて、世界の現象がそれぞれの人間の知覚への現象なのであって、人間の理性が「唯一的な真理との一致」に達することが出来るという素朴な信仰が失われたあとの、不安と焦燥を示している。このうち、最も重要なのは、k、自分たちの顔ばかりがぼんやりと浮かび上がり不気味な思いをする場面である。正にこの場面において、単なる無責任な認識としての、よそよそしくなってしまった(理性的把握の不可能性が暴かれた)現象的世界に対する「不安」を越えて、自分自身もまた他人の知覚への現れであるという自覚、不確かな現象の一つでしかないという「発見」がなされているからである。jにおいて、夢の中の女性がトラックの男性運転手の身体に当てはめられてしまっていたように、自分もあのようなグロテスクな現象ではないということを、自分自身で証明して見せることが出来ない。それはiにおいて、妻の「鈴の音」が意味しているものが本人の証言するように「木履」なのかそれとも「Yちゃんのおもちゃ」であるのかを決定するのが本人以外の者であることと同型である。
先になぜ梯子が折れてしまうのかという問いを立てておいた。芥川の文中にそれを求めるのは循環になってしまうが、とりあえずの答えをつかむことができる。それは梯子・蜘蛛の糸を登ることは近代的個人の内面における救済の問題であるはずなのに、私たちの存在そのものの根拠が他者の方へと引き渡されてしまっているからだ。私の像は他者の意識に映った像をすべて重ね合わせたものである。他者の臨在が私の存在の条件であるのに、救済はただ一人で梯子・糸を登ること以外ではない。ここに芥川が突き当たった根本的な矛盾がある。
5.結論
ここまでの議論を整理しよう。芥川は物語性のある小説を選ぶことができないから、敢えて(アイロニカルに)詩的小説、色彩的小説を選ぶほかなかった。物語性のある小説をなぜ選ぶことが出来なかったか。認識的問題として、錯覚や錯誤の為に、唯一絶対の超越性(真理)をつかむことが困難であるから、そして、実践倫理的問題として、自己自身の存在もまた他者との関係的所産なのであって、一人だけ抜け駆け的に上昇すべきでない、かつ、することができないからである。
では、芥川に希望はないのか。芥川はニヒルかつシニカルに不可能性を呪い続けるばかりのくだらない人間なのか。そうではない。
『蜃気楼』に見られるように、色彩的世界においては、「消失点」、「光源」が存在しないために「僕」はつねに不安に苛まれ、落ち着くことができない。事物を確かに照らし出す星明りはまるでない闇夜である。だが、砂浜が「僕」等の顔を(不気味に、とはいえ)辛うじて照らしてくれるのである。実像は困難でも、その屈折としての虚像を、砂浜のもたらす光である蜃気楼はあたえてくれる。なぜ「僕」は見ることが困難であるのに諦めようとしないのだろう。なぜ不安に苛まれながら歩き回っているのだろう。「「話」らしい話」を捨てる諦念を究極的に突き詰めれば、そもそも小説自体を捨てることにたどり着く。局所的な機能的配置としての「色彩」という工夫も諦めてしまうのが合理性ではないのか。
芥川は諦めていないのだ。諦めないから苦しんでいる。「僕」は「新時代」の男女たちのように生きることはしない。「炉辺の幸福」は、聖書に由来する言葉であるが「新時代」の幸福にはこの言葉の響きが漂っている。日常的な幸福に沈滞・埋没するのか、それともそれらを超越する意識を持ち続けるのか。『蜃気楼』は散文的な、身辺雑事を描いただけの小説に達しない文章に漸近しているが、それらと峻別するのは、この、苦しみを引き受ける覚悟である。
6.引用・参考文献
・芥川龍之介『西方の人』:「現代日本文学大系43 芥川龍之介集」筑摩書房1968年8月25日初版第1刷発行
・芥川龍之介『文芸的な、余りに文芸的な』:「現代日本文学大系43 芥川龍之介集」筑摩書房 1968年8月25日初版第1刷発行
・芥川龍之介『蜘蛛の糸』:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房1986年10月28日第1刷発行
・山敷和男『芥川龍之介の芸術論』:現代思潮新社2000年7月5日初版第1刷発行
・川上光教『芥川龍之介とキリスト教』:白地社2005年1月30日発行
・佐藤泰正『芥川龍之介論』:「佐藤泰正著作集④」翰林書房 2000年9月20日第1刷発行