私たちはどうして声を荒げるのだろう。
私たちを痙攣させるあの煮えた怒りを伝播させるためだろうか。
そうではあるまい。
「残酷な静寂」があたりを包むのを、何より自分自身に対して隠すためなのだ。
今日の学生はどうしてこれほどまで政治的に不活性なのだろう。
日本人は宗教を知らなかったし今も知らない。
生活の隅々にまで宗教的な事物が蔓延しているにもかかわらず、「宗教」であると規定したものを毛嫌いし唾を吐きかけ遠ざけようとしてきたし今もしている。
そしてついには「政治」も、その「宗教」のリストに加えられたようだ。
どうすれば彼らをいま正に必要な「政治」へと駆り立てることが出来るのだろう。
「時計の針を巻き戻すことは出来ない」
この文を私は進歩史として読まない。
それは上昇や克服ではなく複雑化である。
類的経験の蓄積は私たちの可能性を増大させるのではなくむしろ縮減するのである。
次々にあたえられる制約は類的潜勢力が発生する成長線を徐々にたわめていく。
そうした潜勢的宇宙の卵割を、「歴史」を避け「類的発生」と呼ぶことにしよう。
政治的に活性化した学生が現今のキャンパスに溢れかえっている絵を想像してみよう。
だがそれはあまりにもグロテスクであると言わなくてはなるまい。
人間の本質は関係性にある。
端的に言って、いまのキャンパスは政治的な学生の存在と相容れないということなのだ。
コンクリートと鉄とガラスの高層ビルが立ち並ぶ無機質なオフィス街のような景観。
警備員が巡回し、監視カメラがいたるところに設置され、カードキーと自動(で閉まり、以降開けられなくなる)ドアによって交通が無意識的に管理された空間。
高騰する学費と泥沼化する就活と(立法者不在のうちに)自動生成する規則とによって馴致された従順な家畜たち。
体制が生命の性質を根底的に規定している。
今日のような体制はどこから来たのだろう。
それに対してどのような「抵抗」のアプローチがあるのだろう。
いや、本当に、「抵抗」なる前時代的な実践はなされるべきなのか?
ある責任的主体が他の責任的主体と真に出会い交流し認め合う交響=公共経験。
主体の主体性、私の比類なさとは否定する力である。
決して回収されない否定性。
かけがえのない他者の他者性。
人称的主体たちによる対話と議論の積み上げと立法的意思決定を「政治」と呼ぶなら、そんなものはどこにも見当たらない。
主体たちの闘争(立論・努力⇒抵抗・友情⇒揚棄・勝利)が繰り広げられる弁証法的な世界、すなわち「社会」はもうどこにもない。
「悪の親玉」を叩けば世界が救われるという機動戦的思考はとうに失効した牧歌的な世界認識(夢!)である。
新保守主義は、政治を否定・縮減する。
「官から民へ」
「労働組合から市場へ」
労働者という理性と判断力を持つ「市民=人間=主体」は権力の舞台から去った。
華青闘告発以後、日本社会において、本質主義的主体は選択不可能である。
しかしなぜ新保守主義は、文化的保守主義を維持できるのだろう?
あのベタでヘタなナショナリズムへの先祖返りはどこから来るのだろう?
文化的相対主義とは政治的対話以前の形式的合意である。
闘争する(頭をかち割る)のではなく住み分けるということだ。
が、相対主義は選ぶことそのものをスポイルする。
選ばれたものが何であれそれが選ばれるに足る理由を許さない。
信じることとは絶対的に信じることであるはずなのに、それは認められない。
文化的相対主義は結局すべての文化を認めないという方法なのである。
すべてのプレイヤーが、本音では「私の信仰だけが本当の信仰である」と考えながら表向きには「すべての信仰が信仰である」というふりをしている。
「この建物の中に入る前に拳銃を置いていくことにしましょう」と取り決めながら、「バカめ、オレだけは密かに持ち込んでいるんだよ!」とすべての人が結局銃を持ったまま建物のうちに入るようである。
そこではマイノリティと保守との奇妙な道徳的すり合わせが生じている。
すれ違っている(対話しない)から摩擦が生じない。
単子的原理主義の林立状況である。
個体は声を上げる(VOICE)前に退去(EXIT)させられてしまう。
非政治的な統治権力は、マーケティング的な発想をする。
主体的に闘争するのではなく自然に退去するように差し向ける。
命令する主体なく条件として機能する(ノトーリアス・B・I・Gのようなものである)。
それは責任の遂行ではなく、リスクマネージのためのウイルスソフトのようなものだ。
倫理のために人間が要請されるとして、それが結局本質主義的「汚染」を受けているなら、八方ふさがりではないか。
他者を傷つける可能性にまみれた巨大ロボット(=主体)に乗るくらいなら引きこもっていたほうがましだ。
いや、それでも、悪を引き受けるべきだと私は考える。
闘うべきだ、と、悪魔ちゃんは言う。
引きこもったさきの痛くない「日常」は、アメリカという大きな亀の背中に乗っているからだ。
オタク文化とは、アメリカニズムの変奏にすぎないからだ。
テロルによって人が死んでいる。
単子的原理主義、タコツボへの後退にはなにかとても胡散臭いところがある。
何かが間違っている。
体制に絡めとられていく自分をどこかから無責任に眺めているような感じだ。
考えるのをやめて、夢に没入できたらいいのに。
半覚醒のような、眠られないひどい気分だ。
では闘うとして、どう考えるべきなんだ?
非政治的な統治権力に対して、政治的アプローチをするなら、つまり、力の結び合わされる「主体」を想定してこれと関係しようとするなら、あたかも陰謀論のようになってしまう。
それは痛くないか?
シャドウ・ボクシングのように見えるのではないか。
「お前は何と闘っているんだ」
「体制だ」
体制が永続するならそれでいいのかもしれない。
しかしそうではないはずだ。
体制という言葉をもう少し丁寧に使ってみよう。
体制は小さな体制と大きな体制とに分れる。
最小限の統治機構単位を組織と呼ぶ。
「組織」というとき、具体的には、地方自治体や株式会社や大学当局をイメージしている。
組織には外部がある。
外部(株主)に対して、そのプロパティに応じて、アカウンタビリティをもつ。
が、国家を監査する第三者委員会は存在しない。
あるいはグローバル資本主義=市場原理とその自己実現を助けるネットワークの総体としての<帝国>にも外部がない。
外部のない統治機構は、無限に内的な膨張を続け、臨界を迎えると共に一気に一点に爆縮する。
必ず破局が訪れる。
それはある意味で、どこまでも引き伸ばされた緩慢な死なのかもしれない。
いや、そうだ。
体制権力の源泉であるプロパティという観念には、「ただしそれが他の人のプロパティを可能にする限りで」という留保がそもそもあった。
それが使えないか…?