「嘴と灯」以後 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

「神」がわれらにあたえ給うた二つの武器とは「決意と確信」である

決意は、秩序に対決するスサノオを導いたコウノトリの嘴に、

確信は、ギャツビーが仰いだ緑のハーヴァーライトに託されている


ボリシェヴィズムは一国社会主義=平和共存主義(馬脚が露れたが)

ニューレフトはそれへの反動、世界同時革命=暴力革命主義

70、7.7華青闘告発は、ニューレフトにおける「主体」概念の差別性、抑圧性を暴いた

革命の「主体」がどんどん困難になっていく

構造主義/ポスト構造主義による批判を受け、いよいよ困難である


本質主義はすべてマイノリティ抑圧に繋がるから使えない

かといって、マイノリティ運動への資本の応接としての「ポリティカリーコレクトネス」、つまり、メニュー表に「当店では○○、△△、××などのマイノリティーに配慮しております」と予め言及してしまうことで「合意」が為されたことにして、商取引以外のコミュニケーションをすべて「異物」として感知しこれを排除する「監視・管理社会」という「体制」に乗る訳にも行かない


浅田さんの逃走戦略ということの眼目がようやっと腑に落ちた


とりあえず自分の足場を確保する「賭博としての信仰」と、「決断主義」を採る

歴史、意味、物語、そこから世界全体が与えられるような超越的不在を信じられるか

それは本当はなにも現世的担保を与えない

認識的保証を決して与えない空中楼閣、ぼくの言葉で言えば「ちくわ床」である

だからそれは認識的把握、所持、制作、選択、労働、利用ではなく賭博的決断、「信仰」によってしか関わることが出来ない

故(シーニュ)なき信である

霊性といってもいいし、空や存在、他者といってもいい


「賭博としての信仰」とは「恋煩い」である

それはままならないが、私たちに生きる意味を開示する

あなたの本当のよさは、私にしか見えない

あなたのよさを指示する記号として私はこの世界における滞在理由をもつ


奇蹟とは次のようなものである

宴会が終る

みんなで雑魚寝する

ブランケットの下で、きみがこっそり手を握ってくれる

意外と柔らかい


凡庸と稚拙とは、要は党派性の否定である

党派の否定というのは、結局、規律訓育の否定まで行き着くのであって、それは自律を解体してしまう


賭博としての信仰について

きみ=その人は、いわしの頭でも発泡スチロールのシヴァ神でもチーズワッフルでもよい

が、それを私は信じる

緑の灯火とは、偉大なるギャツビーが殉じた「失われた光」である


そのもとに、私は自己を服従させ、規律・訓育し、主体化する

「どんな汚い手でもいい、とにかくぼくを前に運んでくれさえしたら」私はそれを選ぶ

しかし、その神は、ついには解体されなくてはいけない

それはやがて打ち捨てられるべき階梯である(虹の階梯)

私は罪滅ぼしをしなければならない

ぼくを運んでいくものはまたきみを傷つけるものでもある。

根源的にぼくは諸君の敵である。

車が同時に人を轢き殺すものであるように、ある種の薬が同時に毒であるように、技術は両義的なものである

それは(神の)不当な不在であり、(私の)不当な存在である

存在は悪であり、私たちの諸手は血にまみれている

私たちは加害者のポジションを敢えて採るべきである


そして、肝心の実践であるが、ぼくはかつて「中庸」と「弁証法」を溶接する、というようなことを書いている

中庸とは、要は仏教的な無私的存在方法みたいな感じだと思う

起点も終点ももたず、寄りかかるべき価値軸ももたず、己の呼吸に重心をおいて自制を常とすること。

則天去私か?


弁証法は、未来の未知性に希望をかけるということだろう

変化する実体

変わり続ければ、罪深い主体も変わり続ける


が、よくわからない


実践は困難である

ハイゼンベルク的な困難さである

動かそうとすると、思いもよらないようなし方で、変化する

世界との間に膜のようなものを感じ、ズレがあって思うように行かない

キングクリムゾンみたいなものかもしれない


ぼくが書いているエロースとは、今日習った言葉で言えば、「オイケイオーシス」である

人間の社会的欲望、親類関係、親近性、社交性、親密性を求めるこころである

コミュニタリアニズム=ナショナリズムに堕する危険が高い


決意と確信とが二つの武器である

決意とは、何が起きてもおかしくない現実を前にした黄金の勇気である

大文字の他者(家父長)に頼らない、弱い私自身の生を賭けた闘争的決断である

「決断主義」を学びたい

ハイデガーみたいなナチス肯定に到るのだろうか


実際、ぼくはいま、家父長的なもの、全体主義的なもの、つまり結局党派=教会の教義をどんどん内面化(規律訓練)しつつある

全体主義批判を、「西洋近代的主体」抜きで出来るか?

もはやそれは「弱い私の祈り」つまり、先ほどの比喩を用いれば恋愛的感情によるずらし戦略しか対置する(できる)ものを思いつかない


*


「ぼくは待っていたんだ。そのときが来れば、ぼくは抵抗しない、ただ受け入れるだけだろう。そのときはきっと近いはずだよ、そうさ。あとは時間の問題なんだ」

人生においてぼくが望んだような特殊な契機というものはそう多く訪れるものじゃない。

いや、皆無と言ってよい。

個人にとってある体験が特殊な契機として機能したと自覚されるのは、いつも事後的な回顧を迂回することによってしかない。

だからぼくのように固着した過去をこれ見よがしに嘆いて見せているうちにはけして劇的な転換というものは望めないものなのだ。

つまり、ぼくは真には己の生と向き合っていなかったということだ。

臆病は欠性的な仕方で示されるものなんだと思う。

われらに与え給うた二つの武器
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10726057857.html



「何があっても不思議はない」という元も子もない事実こそが物語を語ることを難しくしていること。


この時代は、社会が大変なディスレクシア(失読症)に陥って

いるのではないかと思います。

世界について考える言葉が失われているのではないか。

たしかに生活言語ならあるし、言葉遊びのような排他的な

ジャーゴンは日々更新され続けています。

でも、それは老いぼれ犬のように同じところをぐるぐる回っている

だけであって、真に世界を捉えることはできていないのではないか。

ダンスナンバー2010

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10669562254.html


これを越えてゆくものは反って「越えてゆかないもの」しかない。

超越することから超越されることへというシフトがある。

マイナスがプラスに転化される瞬間がある。

ネズミ捕りならぬ猫捕りとしての「ヴィークル」。

ぼくを運んでいくものはまたきみを傷つけるものでもある。

根源的にぼくは諸君の敵である。

否定の身振り、ないものの引き受け。

どんな汚い手でもいい、とにかくぼくを前に運んでくれさえしたら
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10737503756.html


さて、批評とはなんだろうか。

正直に言って、ぼくは批評という言葉にポジティブな印象を抱かなかった。

みずから前線に立ち、「困難な原事実」に己の知的背筋と知的肺活量とによって立ち向う人間だけが公性を担いうる、なんてマッチョなことをぼくは考えていた。

いや、いた、というのは潔くないな。今も否定できないでいる。

「批評?自分は遠い安全圏から一方向的に石を投げるクズの間違いだろう」


たしかに、一面にはその通りかもしれない。

でも、反対に、前線なるものの中にほんとうに公性はあるのかよ?

「予め立てられた、状況から自由な零度の審級」なんて都合のいいものはどこにも存在しない。

なら「前線/安全圏」の二項対立だって自明視されていいものではないはずだ。


むしろ、世界は、「前線」の方が高い壁に囲まれているように思う。

スカスカのモラルというのは、そこからやってくるんじゃないか。

いまや前線は公性を失った。

もはや公的な前線はどこにも存在しないのだ。

ここが勘どころだ。

全体的な公性の基盤は沈下し、島宇宙的ゲーテッド・コミュニティが林立している。

そこから「人それぞれ」と「自分さがし」というイデオロギーが湧いてきているのだ。


ゲートを越えて渡っていくことができるものは金だけだということになっている。

正しさとは金のことであり、善さとは金のことであり、美しさとは金のことである。

なに、そんなことはないって?

「ほんとうに大切なものはお金では買えない」

なるほど。

では、君はその本当に大切なもの以外については偽の大切さだと思っているのだね。

じゃあ捨ててみてくれよ。

…今はできない、なるほど。

ぼくはそれを「できる」とは言わない。

あなたはほんとうに大切なもののなんたるかについて知らない。

できるというのは、いまここでできるということだ。

そして、いまここですることができるということを「知っている」というのだ。

ぼくはあなたのような一見「まとも」で「良心的」で「社会的な」立場をして「スカスカのモラル」と呼んでいる。


そして、問題は、上のように隠れた「偽のモラル」である「スカスカのモラル」を抉り出し、糾弾し鉄拳を下すのだという「絶対に否定できない正しさ」を掲げる立場をどう処するかということだ。

上のような議論を辿っても、外には出ることができない。

ではかく言うあなたはなぜその偽のモラルを捨てることができないのか。

知っているというのはいまここですることができることをいうのだ。

あなたは本当のモラルを知らない。

ぼくはあなたのような一見「まとも」で「良心的」で「社会的な」立場をして「スカスカのモラル」と呼んでいる。


このようなうんざりするような反復運動をぼくは「近代」と呼んだ。

『近代とはなんだろうか』

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10713306339.html


どうしたらいいと思う?

ぼくは「中庸」という知的態度を知っている。

中庸は孔子やアリストテレスが説いている概念であるが、ぼくはこのように理解している。

「世の中には「悪い性質」と「よい性質」が対になっている。「悪い性質」を捨て「よい性質」をとるべきだ」という主張にも、

「ちょっと待て。何をして「よい」だの「悪い」だの決めるんだい?本当に「よい」とか「悪い」なんて存在しない。セックスとドラッグとバイオレンスだけが人生だ。レディメードな軽くて薄くて楽しいものをその場限りで消費するのがよく生きるコツさ」という主張にも与しない。

起点も終点ももたず、寄りかかるべき価値軸ももたず、己の呼吸に重心をおいて自制を常とすること。


でもなんだか面白くなさそうじゃない?

そのとおり。

そこでぼくは「批評」を求めたのさ。

ぼくには、ぼくよりも優れた好奇心が宿っている。


ぼくはのうのうと生きてきた。

ろくでもない人間だし、ぼくの人生なんてかたつむりのフンほどの値打ちもない。

一般論では「誰の人生にも価値なんてない」のかもしれないけどね。

でも、やっぱり、そうさ。

ぼくは、自責と後悔ということなら、同じ年月を生きた誰よりも考えたよ。


ぼくは君に与えることの出来るものなんて、何ひとつ持ち合わせていない。

ぼくは君のことが好きだよ。

でも、君にしてやれることなんてなんにもない。

むしろぼくがきみから遠ざかることくらいさ。

ぼくには何もない。

金もない、地位もない、名誉もない、セックス・アピールもない。

みんな総武線の車内に置き忘れてきたんだよ。

しかし、ぼくは誰よりも、君にしか与えることのできないものを必要としている。


いいかい、十年代に風穴をぶち開けるヒントは、ここにある。

価値があって贈与があるんじゃない。贈与があって価値があるんだ。

転回とは変らないことであり、アンチ・モノトナスとはゼロのことであり、風穴とは「ない」ことだ。

重くて重くて仕方のない荷物の正体は、「空」であることだ。

ぼくが君に与えることのできるものは存在しないし、金で買えないかくされた本当の価値なんて存在しない。

「欲望は欲望を充足させるものすべての彼方を欲望する」


しいて言えば、批評とは愛と敬意と好奇心のことだよ。

批評とはなんだろうか

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10718765747.html


たしかに「主体と対象の不一致」は人間が現実に接触することを不可能

ならしめています。

しかしそのことは何かしらのあるべき人間性の欠損を意味しません。

むしろそれは、人間性という欠損なのです。

「認知は人間的自由を損ねる阻害因子ではなく、人間的自由の結果

である。」

人間は天地交歓(あるいは彼我一致)が不可能となることと引き換えに、

人間的自由、すなわち主体的コミットメントと(そのことがもたらす過剰な

利己性を抑制するための)社会を手に入れたのです。


そうした人間という業病こそが、ぼくたちにとっての、一つの確かな

手ざわりであるのだ、とだけ述べておきたいと思います。

現実について

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10624603854.html


一方で、「ふーん、ディスレクシア。じゃあそれでいいとして、その上で

何か問題でもおありかしら?」という向きに対しては、どう答えるでしょうか。


大いにあると思います。それはエロースの問題です。

文明は文字と共に始まりましたが、文字がなければ人間の共同性を

支えられません。

一万年前ならそれでもいいかもしれないけれど、地球上にこれだけの

人間がいたら、共同性の物語なしでは暴力を停止できないと思います。


そして、ここではもう半面、「人間であるとはまだ人間であるということだ」

を頼りましょう。

つまり、まだ「本当は」言葉は失われていない、と語ろうと言うのです。


どのようにして?

ぼくは歴史を学ばなくてはなりません。

予め言っておきます。

平成の内部から平成について語ることは不可能です。

当今のほとんどの言説は無効であるように思えます。

平成は昭和以前の言葉によって語られなければならない。

ぼくはこうしたスタンスをとります。


ニューウェーブはつねに、先行世代への巨大なノーとして

立ち現れてくる。

それはディスレクシアの只中にある新しい構造化の言葉です。

今日の言説空間のどこにも位置づけられないために、反って

偏在しうる。

きみたちは社会の維持存続のために跳躍しなければならない。

予見し得ないサルト・モルターレ!


そして、きみたちもまた、「やがて打ち捨てられるべきラダー」に

他ならないことを、遂に知ることになるでしょう。

その限りにおいて、きみたちは正しい。

きみたちは時代を誇るべきだと思います。

ダンスナンバー2010
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10669562254.html


 凡庸とはまっとうであることだろう。まっとうさとはディセントな態度であり、並であることだ。

ディセンシーとは、まず全てに先立ってあらゆる慣習が失効する闇の奥に放り込まれ、とにかくそこでありあわせのものでなんとかしようともがく中で誰しもが成し遂げてしまうできるはずのないことの謂いである。

既知の、経験の中にその解を求めても見つからず、ただその場限りの自然の態度によってしかありえない。

 ディセンシーは秩序性から最も遠い。秩序が果てる世界の周縁でしかしなおかつそこに交話の回路を立ち上げようとする潜勢力の発光である。そこでは最も遠いものが最も近しい。

 しかしディセンシーは持続性を持たない一瞬の好運である。それはやがて打ち捨てられる梯子であり、きみがそれを伝って渡って行くことのできる、引き潮のたびに姿を変え現れてくる砂洲である。そして生々起滅する滞留性の総体は偉大なゼロである。ディセンシーは罪滅ぼしをしなければならない。

 罪滅ぼし、すなわち否定する身振りは我々の前に腐敗として立ち現れる。腐敗はおぞましい沈黙であり遠さへの恍惚である。それは類に対するフェアネスである。類は今ない。類はここにない。類は反復である。循環である。永遠の時である。それは逸脱的で怪異で不均衡で過剰で無能で裸形で異質で混濁し葛藤し溶解し氾濫し愚弄し侵犯し破壊する限りない痙攣である。受け入れることも憐れむことも許すこともここにはない。その危機において廃墟において裂傷において、しかしきみは穏やかに微笑み静かに肯う。届かないということ、そのことにおいてきみはそれに触れている。決意と確信がぎりぎりのところできみを呼び止める。

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10747717197.html


配置された状況、意味的に組織された局面、歪曲された投影像だけがぼくを前に進める。

というのは、そもそもどちらが前でどちらが後ろかということがすでにして価値=意味=像だろう。

ぼくは前に進もうとするが、しかしぼくを進めるヴィークルはまた同時にきみを傷つける。

隔たりを解消しようとすることは即ちきみをある特殊な価値体系の下に従えることである。

ただし、服従させること、飼い馴らすことがいつも悪いというのではない。

よき人々によるよき物語へのよき服従であるならばそれはよいことだろう。

しかし、最もよき者たちは戻らなかった。

彼らを想えば、ぼくは適さない。

今、絶対の物語も、絶対の罪も、したがって絶対の贖いも失われている。

ここできみのためにぼくができることは何もなく、ただ何もしないことだけだ。

何もしないことだけが贖いである。

よさを巡っては、ぼくは黙ってここを立ち去るほかないのであって、残ることはすでにしてよさの放棄である。

ぼくはこれを如何にしても正当化することができない。

ぼくはぼくが好きな人に対してきらいなことをしないようなぼくが好きだったのであって、ぼくが好きな人に対してぼくがきらうようなことをするぼくを好きになることはむつかしい。

どんなくだらない神が許しても、ぼくは許さない。

直ちに立ち去るべきであるところで、ぼくには残ることそのものの負債について罪滅ぼしをする責務がある。

それを忘れない限りでという留保のもとに、ぼくは自らに今しばらくの滞在を認める。

これは欺瞞であり敗北であり裏切りである。

絶対に忘れるな、絶対に安住するな。

これがぼくの出発点である。


ではさらにどのようにしてあるべきか。

それはよき者たちに代わって、彼らの不在を補うことによって、と答えられる。

ぼくが彼らの代わりに、彼らの不在を補って、状況に介入するエージェント(代理人=触媒)である。

本来ふさわしくないぼくが彼らの代わりにここにあること、それをぼくは倫理と呼ぶ。

ぼくは彼らの名の下に、部分的に、辛うじて、ささやかなよきことは可能であることを信じる。

故なき信の「いわしの頭」がただぼくの慰めである。

意味の大地=目的の王国にあって、ぼくはもう何者としても認められえない。

何者としても認められることなく、よき星々は遠く、憩いもありえないが、しかしなおかつぼくは凡庸と稚拙の日々を生きていくだろう。

時折、もしきみがここにいてくれたならと振り返りながらも。

よき日々のあとに

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10785727202.html


ぼくは、ないと言えばないけれども、あると言えばある、だから、ある、ということを軽んずべきでない。

なぜか、なぜか、と、この覚束なくみじめな、しかし拭い去りがたい感触を、仮構的基点と置くべきだ。

この足場は不確かであるがゆえに、ある確かさを与える。

なぜか。

それは、本当にその足場なるものは確かなのかとより鋭くより厳しく疑えば疑うほど、その疑いの強度によって、浮び続けるエネルギーを賦活される、そうした足場であるからだ。

疑いの鮮やかさが、かえって対象の姿をいよいよ明るく照らしてしまうのである。

こうしてぼくは自己の是非を、進退を決する立脚点を得る。

ここに、己を斬ることも斬らぬことも、可能になる。

いずれにせよ、よく研がれた刃は、鈍く光っている。


ぼくはいかにあるかではなく、ただあることについて、よいのかと問う。

悪いと思う。

ぼくは不安という確かさに安住してはいないか。

いつも思い出すということはいつも忘れていることではないのか。

あることそのものの誤りについて、人はいかに清算しうるのか。

それは恐らく、人を待つことによって。

だがそこでさらに、ぼくが待ち合わせをすっぽかしたとすれば、どうなるか。

ぼくが求むる確かさは、失われる。

ここで再び待ち合わせを設定しようということは正当化されえない。

向うには待ってやる義理がないからである。

待ち合わせを軽んじたのはぼくの方だ。

カードはみな失われたのである。

ぼくにとりついたのは、正にこの、ないものの影である。

待ち合わせの約束ならば、他の人と取り交わせばいいではないか。

なるほど、そこで誰を選ぶかということはたしかにぼくが決めることであるようだ。

実際、ぼくはいくらもそうなしうる。

ときに状況が許さないことはあるが、原理的には、必ずこれを押し留めるような絶対的な外部要因はない。

しかしにもかからわず、ぼくはないものの影を引きずって歩いてきた。

ぼくはひどく眠たかった。

まぶたは鉄のように重く、熱にうなされていた。

しかしみな忘れてしまうのは怖ろしかった。

ぼくは眠られぬ日々を過ごしてきた。

ギャツビーの精神に殉死すべきであると思った。


だが、ぼくは現に、こうしてここにいる。

これを美化しようとは思わない、ただそうあるだけだ。

ぼくは腰を上げる。

きみの不在に出会ったのだ。

きみに代わって、とぼくは思う。

ぼくはチーズ・ワッフルを確信している。

だからこうして、ぼくは問い、答えるのである。

チーズ・ワッフルのためのアリア

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10799579765.html