さようなら、超人たち
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-11132379098.html
そして、そういうときって、傍からはきっと、君の船はまっすぐに進むように見えるだろう。
まっすぐに進むように見えるだろう。霧も、闇も、クソもないんだ。決意と確信が船の舵を取るんだよ。あたかも、見えない糸を手繰り寄せるかのように。
港町
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10683936256.html
決意と確信、神がわれらに与え給うた二つの武器。
「実践」ということが今ぼくの中ですごく大きな問題となっていて、少しずつ動き始めています。
オデュッセイアの終りに
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-11130689122.html
ぼくは、「成熟」とか「善」とか「共同体」とか「優しさ」とか「知性」とか「勇気」とか「手助け」とか「身体性」とか「真理」とか「クールネス」とか「愛」とか「努力」とか「文学」とか「世界」とか「生命」とか「希望」とかっていう言葉が宙に浮かないように、(こんなのべつにサルでもいえるんだよ)固有名と物理的身体を差し出したわけでしょ。その限りにおいて、なにかしらの意味をもつわけ。
それはその背後に莫大な生活を懸けて、その限りにおいて、やっと、髪の毛一本くらいの重みを持つわけ。そして、しばしば人間の魂は、髪の毛一本で救済されたりされなかったりが決定される。そういうことでしょ。
And we can stay all day!
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10682048075.html
いいねえ。「生活」ってところがいい。
ぼくにおいて、無責任とは何よりも、今日の高度情報社会において氾濫する過剰な情報の流れに身を投げ価値判断が不可能になる程多くの事例を吸い上げることを通して主体を積極的に壊乱する自滅的な振る舞いをネグレクトした人間のほうであって、少なくともぼくのことではないと思っていた。
でも、この転倒した論理は、たぶんやはり間違っている。
ぼくたちは「自由には責任が伴う」という言葉を耳タコなほど聞かされてきた。いわゆる自己責任論である。その当否はひとまず措いて、ここで言われる自由とは、主体的・能動的・自律的な行動の自由のことである。あるいは、「抑圧がなければ表現はない」という言葉を挙げても良い。つまり、それがどれほど好ましくないものであっても、まずはつねに他者を傷つける可能性を伴う「主体」を引き受け、行動をしなければ、世界は何も変わらないのである。
確かに、残念ながらあらゆる思想、あらゆる主張、あらゆる行動は、潜在的に他者を傷つける可能性を予め内包している。したがって、ぼくたちは、己の諸手がどす黒い血に染まっていることを認め、「加害者のポジション」を引き受けることなしに一切の自由を手にすることはできないのである。
きみにお願い
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10676280083.html
2010-10-14の時点でここまでわかってたんだな、とおもった
ぼくは巷間にあふれる舌先三寸のクソ共とは違ってさ、マジで世の中をよくしようと素朴に信じている。それはなにか既存の善さに構造的にぶらさがるのではなくて、ゼロから、ここから始めようと、マジで思ってる。
実際、ほとんどバカでキチガイに近い。だって何の当てもないのだから。だけどさ、たぶんこれ以外に道はありえないと思う。三年かけて考えた。でも、他にはありえない。ほとんど盲目的な、強固な信念だけが、ほんとうに世界を変えうる。ぼくは信じている。
ヘルプミー!プリーズカムウィズミー!ぼくにはきみが必要だ!
「情況への加担」以外のふるまいを私たちは選ぶことが出来るのだろうか?
疎外とは能動的・主体的に彼が構築したはずの自分の考えを、神格化し絶対視したために今度は反って彼自らがそのふるまいを規定されてしまうことであるが、「私」の同一性はその規定性の限りにしかありえない。
同一性は起点と終点を立てることが出来ないのであって、救済という目的=終点は決して到来しえない。
人間的自由において救済はありえない。
永遠に出口があるとすればそれは「出口はない」という隔たりの肯定以外ではない。
「永遠の出口」であり「善悪の彼岸」であり「ありとあらゆるものが共にあるいつでもないいつかほかのときどこでもないどこかほかのとこ」とは「凡庸と稚拙の此岸」である。
自由=疎外の弁証法的人間と鏡の出口
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10765025456.html
義でも自死でもないものは故なき信であると告げている。
それはきっとぼくを生かす福音なのだろう。