現代はポストモダンという相対主義の時代である。
高度資本主義経済がもつ脱構築的な力が、かつて冷戦体制下に前提されていた「大きな物語」を失墜させ、人びとに対して多様な生活形態、キャリア形成、価値観を実現する可能性を開いた。
それは一方でエコロジー、フェミニズム、カルチュラルスタディーズ、ポストコロニアリズム、サバルタンスタディーズなど、マイノリティー運動(言説/実践)をもたらすポジティブな効果を持つとともに、他方では統治構造の変質(規律/訓練型権力から監視/管理型権力へ)に由来する言語化困難な「生きづらさ/息苦しさ」を生み出した。
相対主義は一切の絶対的超越性を否定する。選択された当のものの、選ばれるに足る価値を否定してしまう。それは「私」の存在の比類なさも例外ではない。経験認識的な価値判断を基礎付けるはずの先験的な根拠が拡散してしまうのである。しかし、にもかかわらず、弱肉強食の市場原理主義は自己保存・自己選択・自己責任を強制・命令・規範化する。正しく、いまや「人間は自由の刑に処せられている」のである。自己分析・私探し・自分磨き…。私たちは「主体」なる亡霊を目がける探求を試みるが、それは決して対象に辿り着かない消尽・享楽(オデュッセイア)である。
また、大きな物語の失墜、超越性・一般性・普遍性の敗北は、逆説的であるが、人びとをして互いに共役不可能な個別の「本質」的領域へと後退させる(おたく/引きこもり)。彼らはそれが嘘であることを誰かに指摘されずとも知悉している。が、しかしなおかつ、だからこそ、その対象に没入しないではいられない。そのような実体的に存在しない「もの」に憑かれる事態はフェティシズムと呼ばれる。
「正しい歴史」の不可能性が明かされた後には、無数の偽史が覇権を狙う闘争状況が現出する。それは明確に勝敗が決する国家間戦争ではなく、政治的に正しい「配慮ある資本主義」が自己回転しつつ条理・秩序を拡大する「体制」とそれに対する本質主義的=原理主義的「マイノリティー」によるゲリラ的陣地戦という非対称戦争である。社会を否定しない程度の自由を認める消極的・受動的寛容と、社会を維持できる程度の平等を担保する再生産機構ばかりを残した「体制」は、世俗合理的かつ功利的である。
先進資本主義諸国における大衆は、政治的有効性に対する不信、ポリティカリーにコレクトな予めの合意と抱き合わせの無関心、「歴史/物語」に対するシニシズムのために完全に単子化し、それと意識されることのない権力作用の結果、美化=無菌化された清潔で居心地のよい匿名的都市生活を送っている。
諸君は資本の豚である。
私は満足な豚であるよりも不満足なソクラテスでありたい。私は人間の本質を社会関係に求める。関係から主体を見ればそれは行為が帰属・収斂する焦点以外ではない。実践が問題である。
では、相対主義の困難の下、如何にして「倫理的/歴史的/実践的主体」を構築しうるか。
いま、「抵抗」は可能なのか?