「愛」と「信仰」と「知性」によってみつめられるべきもの | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

吉本によるヴェイユがピンと来るようになっている

遠くまで来たな、とおもう


  ひとは倫理的な善によりかかっているかぎり、事物の真相に覆いをかけてもゆるされるとおもいがちだ。わたしたちが個人や集団のいうことに小癪さを感じるのは、それにぶつかったときだ。


教会の「破門権」は、くだらない。

教会がつまらないから辞めてあげたのであって、辞めさせてもらった訳じゃないと、彼らはいう

主体性を回収しようとするのは単に下品である


  教義は「愛」と「信仰」と「知性」によってみつめられるべきものなのに、キリスト教はそのなかでは個人を窮乏にし、とくに知性の働きを窮屈にする、とヴェイユはいう。


リゴリスティックな慇懃無礼ではないようなふるまい

もっと自由闊達な、明るくて愉快なかたちがありうる


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  それはマルクスの賃労働が、哲学の概念としてあらわれるとき、対象にたいする行為一般の貌をおびてくるのと、とてもよく似ている。なぜそうなるかといえば人間の対象にたいする行為は、同時に対象からじぶんの意識が規定をうけとる行為であるか、じぶんの意識が対象に規定を与える行為であるか、そのどちらかを含むものだからだ。そこで特殊な具体的な行為(賃労働)といえども普遍的な行為という内面をあらわさざるをえない。


以前、「シンカン」は労働であるかということをめぐって口論したことがある

シンカンは労働である。それが「対象からじぶんの意識が規定をうけとる行為であるか、じぶんの意識が対象に規定を与える行為であるか、そのどちらかを含むものだから」


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  この世の外側に、つまり空間と時間の外側に、人間の精神的世界の外側に、人間の諸能力が到達しうるあらゆる領域の外側に、ひとつの実在が存在する。
この実在にたいして、人間の心の中心につねに位置し、この世のいかなるものも決してその対象となることのない絶対的善を希求するあの要求が応えるのである。


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著しく元気がない

明日を生きたいという力が湧いてこない

元気が出るような出来事を、静かに待っている