心的現在 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

非‐心的な現在は可能だろうか

意識する私が正に意識しつつあるということのほかに現在の、この生々しい圧倒的切迫の現在性はないだろう

というか私からはそれはあるとは思われない

この私の比類なさ、今、ここの比類なさのほかに、「現在」と名指される対象があっても、そのとき現在という言葉の含意するところのほうが曲がっているだけだ


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すこしくたびれた

自分は冬欝なんだと思い込むことで気持が満足するのを経験した


可謬性、可誤性の(部分的)肯定のほかに答えなどないことは何度も確認しているけれども他人を馬鹿にする気持が湧いてくる

次の命題を否定してみましょう


「老いたるは惨めである」

「言われなければわからない人間は言われてもわからない」


帰納的な(経験的な)ただしさなんてほとんど間違いだけれど、それにしたがってしまう自分がいる

賢者は歴史に学ぶそうだが


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都市・オタク・ナショナリズム

敗戦・学生運動・探偵


⇒資本主義


『「彼女たち」の連合赤軍』を読もう

UN-GOも観たい


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北一輝

「天皇の国民」から「国民の天皇」へ

天皇主義の革新思想への転化は何を示しているだろう?


教育もそれに似ている

統治の原理であると共に革新の条件たる啓蒙としてもあるからだ


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政治的有効感覚


ブリュメール18日を読みたい

誰にも代表されていないという感覚をこそ代表すること


「サークル・の・タコツボ」を数珠のように貫き通す力は歴史=物語にもとづく「意味」である

タコツボ化は長屋の団地化であると思うが、それはオタク化であるだろうか

星の数ほどあるサークルのそれぞれに参加する学生はみな普遍性を志向したために特殊性に没入するのだろうか


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この突きを突くことが革命の思想的根拠であると思いながら突いている


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普遍の困難

歴史に外的な視座を定立することが出来ないでいるから、そのつど私たちは状況の渦中にある自分の姿を「発見」する

事後的に「事中」的な自分を構成する


今を生きている自分を実感することは、実はとても自己疎外的な事態である

なぜならほんとうに夢中になっている(即自的な)人間は「夢中になっている私」を対自的に意識することはできないからである

これは宗教の信仰における「信じていないは信じている」という「アイロニカルな没入@大澤真幸」と形式的に類似している


そのつどの、「渦中にある私」の発見において、私たちは歴史を「ループ」として感覚する


『ひぐらしのなく頃に』も『シュタインズゲート』も同じ話である

『Air』のほうが「出口」がない分ラディカルである

『Kanon』は『リトルバスターズ!』の「卵とひよこの話」的に解釈すれば同様かもしれない


『コードギアス』を観たい

シュタゲの、紅莉栖の死の読み替え(一見死んでいるがその実死んでいない)は敗戦の終戦への読み替えと似ている

死に基づく二つの世界線の分岐は、本土決戦を戦った日本と戦わなかった日本との「分岐」に対応する

「紅莉栖の死」を回避したためにまゆりが死ぬように、「敗戦」を回避したために「3.11」に到るのである


万物は流転する炎である

火=比として、一切は存在している

人間の関係性の基本は「対立」であり、コミュニケーションとは「認識=解釈」をめぐる闘争である


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あとは、例えばモスラに見られる「南海の孤島」幻想と、地域通貨を考えていない

その深浅・強弱・美醜は措いて、ぼくは一通り検討した気がする


何冊かの読んでいない本を読み、会うべき人に会ったなら、もう観念して「たずきの道」を邁進しようと思う


ぼくはつまらない人間になったが、それが成熟ということなのだろう