『さようなら、ドラえもん』って、原子力で動くとってもベンリなドラえもんに頼ることなく、ジャイアンという絶対的強者に、のび太がぼこぼこにされながらも辛うじて勝つという話だった。
歴史的な筋を通すべきだというのであれば、対米独立以外ありえない。
戦後的な「ねじれ」の解消である。
しかし、ほんとうにそうすべきなのだろうか。
8.15と3.11の原因が日本的なるものであることは説得される。
でも、選択する主体のほうも変化の中にあるのであって、歴史のなかで身体の処し方を自由に出来るのか、よくわからない。
歴史のなかの主体は悪ではないか?
出来事が語りの契機であるのではない、語りがそれに先立つ出来事を構成するのだ。
物語ること=読むことは闘争である。
意味はつねにひとつである。
多様な意味は同時には不可能だ。
ある意味があらわれているとき、べつな意味は後景に退く。
悪も勇気も自由についての問題だとおもう。
まあドラえもんかえってくるんだけども。