資本=ネーション=国家を経由しない自前の経済、中間的なアソシエーション、それらによって可能になる(部分的)直接的政治参加としての「動く集会」が停滞と閉塞の日本に必要だ。
と、政治と思想の感想文に六月のぼくが書いている
その通りであると思う
そして、その時点では見えなかった可能性と限界とをいまぼくは眼前にしている
ぼくはいまとてもやる気がない
燃え尽きてしまったような気がするが、そうではないのかもしれない
関係ということが問題でなかったためしがない
マチウ書試論を読んだ
年内の課題がまたひとつ片付いた
関係の絶対性をつかめたかまだわからない
吉本はやはりすごいと思う
頭をがんと殴られたような、なんというか「物的」な?思想的衝撃である
いてえよ!
行間を空けたときどこからどこまでがひとつの話題であるかわからないような書き方があるなと思った
意識の流れをそのまま紙面の上に再現しようとすることはシュールリアリスムの人々がやっている
自動筆記とかいったような
そうだ
いてえ、と思った
既成秩序下における自由意思による「選択」は人間と人間との関係が強いる絶対性の前では、相対的なものにすぎない
卵を破壊する壁への「加担」は現実的関係性によって強いられているのであって、関係を意識しない思想など幻にすぎない
人間の心情の中ではなく、総体のメカニスムのなかに「加担」の意味はある
加担というものは、人間の意志にかかわりなく、人間と人間との関係がそれを強いるものである
現実の秩序の中で生きねばならない人間は、相対性と絶対性との矛盾の中で生きている
思想などは、決して人間の生の意味づけを保証しやしない
人間は狡猾に秩序をぬってあるきながら、思想を信じることも嫌悪することも出来る
自由な意志は「選択」するが、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである
レーニンの唯物論は秩序への反逆、物質は絶対的な関係ではないか