(03)「何ものであるか」という性質規定から解放された生
(中略)
森泉の指摘の通り、ここでは、留吉と黒人兵たちによる芳子不在の閉鎖的で権利侵害的なゲームが展開されている。この見方をさらに押し進めれば、刺青の破壊は、正当化よりも程度の低い、ただのやり返しでしかないかもしれない。
所有権は使用権に加えて、処分権を含んでいるとされる。処分権とは字義の通り、他人に断ることなく勝手に処分する権利のことである。無意識的に女性蔑視的な男だけの共同性において、妻は夫の所有物であり、結婚は夫の妻に対する、排他的な性交渉権である。それにとどまらず、強力な家父長は究極的には妻の生殺与奪権をにぎっている。そこに、黒人兵たちは妻をレイプすることで契約を反故にし、その「商品価値」を破壊している。それは処分権の侵害にあたる。その短絡的な仕返しとして、留吉は相手の「女性器の刺青」という「身体の処分権」を侵害したのである。
このような冷や汗が出るような厳しい読みは、どこまで妥当的であるかわからないが、いずれにせよ、事件後に当事者たる芳子が証言する力をもたない、少なくとも小説上は芳子が退場することは確かである。
このとき、黒人兵たちと芳子との差異は最大化するのではないだろうか。芳子はどのような状態にあるというべきか。参考になるのは、アウシュビッツ強制収容所について考察したイタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)である。エファ・ゴイレンは『アガンベン入門』の中でアガンベンの強制収容所に対する考察について、次のように述べている。
このことはアガンベンにとって、生き残りは不完全な証言を証言しているということを意味する。そもそも生き残った者が不完全な証言で証言しようとしているのは、証言することの不可能性についてなのである。そして、アガンベンが彼の新しい倫理を打ちたてようとしているのは、まさにこうした証言の構造だった。証言することのできないもの。その証言不可能性を、生き残った者の不完全な証言だけが証言する。この証言することができないものには名前がある。それが、強制収容所にとらわれていた人たちのあの類型、「回教徒」である。これについて、すべての生き残りが同じように報告を残している。彼らはもはや人間ではなかった、と。(エファ・ゴイレン, 2010,p.161-162)
同様に大澤真幸は『夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学』の中で次のように述べる。
強制収容所の過酷な環境の中で、生ける屍にまでなってしまった人に対して、「私のようにしゃんとしなさい」と言ったり、「俺のように威厳を保て」ということを態度で示したとすれば、これほどおぞましいことはほかにないだろう。誰であれ、ムーゼルマンのような状態にまで追い込まれれば、威厳など保てないことは明らかだからである。ムーゼルマンの現前は、倫理の全体を停止させてしまう。(大澤,2012,p.51)
「ムーゼルマン(回教徒)」とは、「強制収容所の過酷な環境の中で、あらゆる気力も体力も失い、生ける屍のようになってしまったユダヤ人を指す隠語である」。アガンベンは、ムーゼルマンを考察する際に、「ビオス」と「ゾーエー」というふたつの生の概念を導入する。端的にいえば、ビオスは政治的、法的な生、等価論理的な生であり、ゾーエーは言語等の媒介のない生、剥き出しの生のことである。
つまり、いま芳子において、ゾーエーの水準の生が首をもたげている。だが、だからこそ、芳子と黒人兵たちは依然、ある点について、「同一」であるといわねばならない。どういうことか。
永井均は『子どものための哲学対話』の中で死を決意した場合のような、極限状態、例外的状況での人間のふるまいについて次のように指摘している。
世の中がきみに与えることができるいちばん重い罰は死刑だね?死刑以上の重罰はないだろ?ということはつまり、世の中は、死ぬつもりならなにをしてもいいって、暗に認めているってことなんだよ。認めざるをえないのさ。(永井, 2009,p.124)
例外状態では、倫理は失効してしまう。黒人兵たちは死を前にして倫理を保持することをやめてしまう。
私たちが他者を気にして、他者の前でよい顔をして生きているのは、他者による承認を求めているからだ。そのことは、自分自身よりも他者のほうを重いと感じている限りで成立している。けれども、本当に自己自身に充足する人間は他人のことなど気にならない。そのことはよい、わるい、以前の問題であって、どうすることもできない。内部に完全に充足することの出来る人間は、死刑も道徳的非難もまるで怖くない。単に好き勝手生きて死ぬばかりである。
ただし、そのとき、その人は、自分の生をそれそのものの内で肯定しつくすことができていなければならない。種的自己保存という観点は、必ず他者を契機にもつから、コンサマトリーな人間の意識には決して去来しない。さらにいえば、自己保存「権」の承認問題も、発生しない。権利を認められようが認められなかろうが、彼らには構わないからである。ただ、止めることができないということに尽きる。黒人兵たちもまた、法や倫理や規範のうちの生、ビオスではなく、ゾーエーの生を生きている。
だが、レイプ加害者である黒人兵たちの躊躇を解除したゾーエーの生という話をすることによって私は、芳子はレイプ被害によって人間の尊厳を深く損なわれ動物的な水準に転落した「かわいそう」な人であるという一方的で差別的な規定をしたいというのだろうか。否、法的で政治的な、言語媒介的、等価論理的な生が人間的生のすべてではないのだと言いたいのだ。ゾーエーは豊かである。
ビオスがより優れた生としてゾーエーが貶められているのはなぜか。古代ギリシアにおけるポリス(政治空間)とオイコス(ポリスの外部、家庭)との区別がそこに反映されているからだ。古代ギリシアでは、今日からすれば信じがたいことであるが、オイコスに属する(身体を用いる)労働はすべて隷属的であるとされ貶下されていた。つまり、「彼女はゾーエーの水準の生を生きている」といえば、確かにギリシア的な文脈では差別的な表現であるとされるだろう。けれども、それを逆手にとって、新しい意味合いをその言葉に付与させることが出来ないか。先行する試みとして、「クィア」がある。
クィアはもともと英語圏でセクシャル・マイノリティを指す「へんてこな奴」といった意味であり、差別的な表現であった。その否定的規定を奪い取り投げ返すことで新しい意味をそこに付与する。「そうだ、クィアだ!クィアで何が悪い?」
そうだ、ゾーエーだ、ゾーエーで何が悪い?ビオスとは法規範の生、言語的媒介による等価論理の生であった。だが、それが生のすべてではない。例えば、私は、財貨や権力だけが生の目標であり、それを獲得するためには友人を騙し、出し抜き、裏切り、誰を信用することも出来ず競争を勝ち上がろうと考える人間のことを「貧しい」と思う。たくさん財貨や力を溜め込むこと、死蔵することが豊かなのではなくて、人にたくさん贈与することができることを豊かであるというのではないだろうか。
ビオス的な価値は確かに、明晰で判明だ。それは数量的に勘定することの出来る価値の世界である。それに比べれば、ビオス的価値基準からは、ゾーエーは「貧しい」ように見えるかもしれない。ビオスにおいて人は、金や力や名声によって、自分のほうが相手よりも強いこと、少しでも上に位置づけられるよう相手に認めさせようと争う。それは人間の承認欲求に従って発生する争いであるから、程度的に本質的であるだろう。だが、自分が何ものであるかということを高らかに宣言し、相手を打ち負かしそれを認めさせることがそれほど重要であるとは思えない。私たちは社会に流通する「肩書き」や「資格」の獲得のために必死になるが余り、反って生活を失ってしまう例を身の回りに散見することができる。
リー・エドルマン(Lee Edelman)は「クィア」とは「永続的に何者かになっていく現場(a site of permanent becoming)」であるとしている。何ものであるかということを、いわば凍結し保存しようとする場がポリスであるのだ。ゾーエーの何が豊かであるのかといえば、人間の性質をそうして凍結し捕捉しようとする試みを絶えず逃れ去っていくものがそこにあるからだ。
以上で、「自分が何ものであるかという性質から解放された生を示し肯定すること」ができたとする。
(04)留吉の採るべき道
村上春樹は『海辺のカフカ』の作中、詩人イェーツの言葉を引いて次のように書いている。
「夢の中から責任は始まる」
私たちは夢の中で、何をしても構わないと考えている。人を殺したり物を盗んだり、レイプをしても誰に罰せられるのでもない。ときには、「これは夢である」と気づいている夢(明晰夢)のなかで、同様の行為を意思的に選択することもあるかもしれない。
けれども、夢と現実とを隔てるものは何であるだろうか。それは、夢の場合はやがて醒めて外の世界に出ることができるのに対して、現実に外部はないという違いである。夢が夢であることが確定するのは、夢が醒めた事後において、振り返ることによってである。つまり、現実は、今のところ醒めていない夢にすぎないのであって、つねに、結局それが醒めてしまう可能性にさらされ続けているのである。このことが教えるのは、現実における責任というものが、それを現実として信じ責任を引き受けようとする私たちの意識のはたらきが先にあってはじめて成立するものであることだ。
「あなたたちはこうするべきである、あなたはこのようにふるまう者であるべきである」という破廉恥な強い倫理の言葉は、ゾーエーのみずみずしい圧倒的な豊かさの前に脆くも崩れ去る。そのような押し付けがましい独善的な強い倫理は認めがたい。かといって、ゾーエーの生だけでも人は満足できない。私たちには承認欲求があり、一切の社会的規定なしでは不安で落ち着かないだろう。ビオス的生もやはり部分的にあったほうがよい。
いま、ビオスとゾーエーとを架橋するような第三の道がある。それは、マクシム(格率)である。マクシムとは、倫理のように「みな、~すべきである」というよりも狭いルール、「自分では~するようにしている」という適用範囲の狭い小さな倫理である。モラルが野球場を煌々と照らし出す外野スタンドの照明であるならば、マクシムは手元をようやく照らす蝋燭の灯である。モラルはゾーエーの、いわば「輝かしい闇」を殺してしまう。留吉は、マクシムの、小さな正しさを護持して、ゾーエーの中を歩いてゆけばよい。
(05)まとめ
芳子を傷つける不可視で匿名的な暴力は精神の服従にまで及ぶ。ただし、加害側の黒人兵たちも同様の暴力によって傷ついている。黒人兵たちも芳子ももう一度新しい性質を能動的な努力によって獲得することができる状態へと回復しうる。また、自分が何ものであるかという性質から解放された生は豊かである。留吉は弱い倫理によって、ビオスへの再参加(自己の再措定)の可能性、ゾーエーの肯定(自己の脱措定)の可能性と両方を担保すべきである。
(06)引用・参考文献一覧
檜垣立哉『フーコー講義』 河出ブックス 2010年12月30日
中山元『フーコー入門』 ちくま新書 1996年6月20日
大越愛子『フェミニズム入門』 ちくま新書 1996年3月20日
編集委員:小森陽一・富山太佳夫・沼野充義・兵藤裕己・松浦寿輝『岩波講座文学11身体と性』 岩波書店 2002年11月20日
今村仁司『貨幣とは何だろうか』 ちくま新書 1994年9月20日
歴史と文学の会編『松本清張事典』 勉誠出版 1998年6月10日
ジョルジョ・アガンベン著 高桑和巳訳『ホモ・サケル――主権権力と剥き出しの生』 2003年10月1日
エファ・ゴイレン著 岩崎稔、大澤俊朗訳『アガンベン入門』 2010年1月26日
大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学』 岩波新書 2012年3月6日
永井均『子どものための哲学対話』 講談社文庫 2009年8月12日
高橋りりす『サバイバー・フェミニズム』 インパクト出版会 2001年4月7日
村上春樹『海辺のカフカ』 新潮社 2002年9月12日
加藤典洋『村上春樹論集①』 若草書房 2006年1月1日
加藤典洋『敗戦後論』 ちくま文庫 2005年12月10日
佐々木毅『民主主義という不思議な仕組み』 ちくまプリマー新書 2007年8月10日