『黒地の絵』と自己の再/脱措定可能性
―きみは何ものにもなりうるし、また、何ものにならなくてもきみ自身である―
(00)はじめに
私は、『黒地の絵』を読むことが、辛かった。特にレイプの描写を読み進めるときには、胃をきゅっとつかまれたように思った。私は恵まれたことに、今までのところ殺人やレイプを直接目の当たりにすることなく、また、当事者になることなくのうのうと生きてくることができた。私は今までのところ、レイプの主体(加害者)にも、客体(被害者)にもなったことがない。けれども、レイプも殺人も戦争も、確かに現実に存在する。私はそれを知っている。知っているということは、私は間接的に潜在的にそれらの目撃者である。本当は見ているのに、見ていない振りをしている。そこから目を背けようとしているのである。これは責任を放棄していることではないだろうか。あるいはさらにレイプの消極的共犯者であると言えるのではないか。私たちは社会の中に不正を発見したとき、それをただすよう努力する義務を負っているのではないか。
本論では、先の発表を踏まえて、私は作中レイプの目撃者となる「留吉」として、どのようにふるまうべきであるのかを考える。構成は次のようになる。私は何よりも、いちばん、レイプの被害者である妻、「芳子」を助けたい。けれどもレイプ事件以後、作中の視点人物「留吉」の前に彼女が姿を見せることはない。現れるのはもはや死体となった加害者「黒人兵たち」だけである。ここで、どのようにしたら私たちは芳子へと辿りつくことができるだろうか。黒人兵たちを経由することによって、できるのではないか。
なぜか。端的に言えば、黒人兵たちが変わり得る可能性を示すことを通じて、一般に人間が変わり得ること、深く傷ついた人が回復しうることを示すことができるからだ。黒人兵たちが変わり得る、人間は変わり得る、特にここで芳子もまた変わり得る。黒人兵たちが更生して罪を償い留吉と再び関係を取り結ぶことができるならば、芳子は再びレイプの傷から回復し留吉と関係を取り結ぶことが出来るだろう。
詳しく説明しよう。いま、読者からは、芳子はレイプ被害者として、黒人兵たちはレイプ加害者として、見えている。確かにその性質は、今生々しく現れている。けれども、被害者としての性質・立場に芳子をいつまでも縛り付けておくことは暴力的であるだろう。社会学では性別、人種・民族等、個人の努力によっては変えることができない性質と、個人の努力やパフォーマンス、またその結果である業績によって獲得される性質とを分ける。前者のような性質編成の原理が帰属原理、後者の原理が業績原理と呼ばれる。
レイプ被害者であるという性質は努力によってどうこうできるものではない。芳子を助けるというのは二つの方法によってである。そのひとつは彼女がもう一度新しい性質を能動的な努力によって獲得することができるような状態へと回復する可能性を示すこと。もうひとつは、自分が何ものであるかという性質から解放された生を示し肯定することである。セクシャル・マイノリティの人の中には、自分の性的なあり方を告白することを暴力的に感じる者がいる。
まずは前者における(関係の)回復可能性を示そう。匿名的で不可視な暴力が問題になる。
(01)松本清張『黒地の絵』
初出:『新潮』1958年(昭和33年)3月
初版:『黒地の絵』 光文社 1958年(昭和33年)6月
文庫版初版:『黒地の絵』 新潮文庫 1965年(昭和40年)10月
文庫版改版:『黒地の絵』 新潮文庫2003年(平成15年)5月
*本文中での引用は、新潮文庫改版『黒地の絵』収録のものを使用する
(02)「黒人兵たち」は芳子である!
a.見えない多重の暴力、強姦の分析
芳子の強姦、彼女の存在のありようが如何に破壊されたかということは視点人物である留吉(と私たち)の視界から意図的に隠されている。
留吉の立っている位置からは、芳子の姿はわからなかった。(『黒地の絵』,p.104)
六人のうちの一人は芳子を取り押さえているに違いなかった。芳子は、息の切れそうな声をあげ、黒人兵の妙にもの優しげな、なだめる声がまつわっていた。(『黒地の絵』,p.107)
隣の部屋では、一人の黒人兵が呻きをあげた。彼らはその方に向かってはやしたてた。口々に名前を呼び、口笛を鳴らし、わめいた。(『黒地の絵』,p.107)
ここで、例えば黒人兵たちは留吉と芳子の屈辱をさらに深めるために強姦の現場を留吉に見るよう強制することもできたが、そのようにはしていないことを確認したい。
哲学者のミシェル・フーコー(Michel Foucault)は近代以前の「公開処刑」と近代刑罰における身体の扱いの違いを論じている。近代以前の公開処刑は、まさに見世物である。受刑者には馬車に引かせて身体を八つ裂きにされるような、凄惨をきわめる過剰な暴力が与えられる。檜垣立哉は『フーコー講義』の中で近代以前の暴力について次のように述べている。
広場でみせ物としてなされるこうした処刑には、王の代理人であり、権力の頂点の仲介者である死刑執行者の存在もまた明確である。(檜垣,2010,p.95)
対して近代刑罰は、外から見えない仕方で(監獄に収容し)身体を馴致することによって精神を服従させることを目的とする。
「[近代刑罰において]懲罰と身体との関連は、かつての身体刑と同じものではない。そこでは身体は、道具か媒体の位置におかれている。すなわち、身体を閉じこめるか労働させるかして、身体に干渉するが、その目的は、権利と同時に財産として考えられる自由を個人から奪いとるためである……肉体的苦痛、身体自体の苦しみは、もはや刑罰の構成要素ではない」(邦訳十六頁、SPl7-l8)(檜垣,2010,p.97)
強姦は刑罰ではないが、この、不可視な身体の扱いの分析が芳子を心的に隷従させる暴力の側面に光をあてる。大越愛子は『フェミニズム入門』において心的隷従化を伴う暴力について次のように述べている。
性暴力は多くの場合身体の次元にとどまらない。それは被害者に屈辱感と自己喪失感を与えて、彼女の心的隷従化をも要求する。それは、女性の魂と彼女の価値体系を破壊し、男性の優位性を女性に承認させる、支配の権力として発動する。(大越,1996,p.192)
そして、規律的な力の重要な性質は、その行使者が匿名的である点にある。ここで暴力の行使者たる「黒人たち」は匿名的であり、記号的である。黒人兵たちの身体は強調して描かれるが、反って記号的である。
シャツを脱いだ男は、上半身を裸体にした。真っ黒く盛りあがった肉が犀の胴体のようにはれあがっていた。(『黒地の絵』,p.103)
裸体になると、彼らの胴はふくらみ、腹が垂れていた。猿の胴体のように円筒形だった。(『黒地の絵』,p.107)
白人の血が混じっているようである者、背の低い者、鷲の刺青と女性器の刺青からある程度は見分けがつくけれども『黒地の絵』の本文中に次のような記述がある。
誰が誘い誰が誘われたということでもなさそうだった。彼らは一組ずつの単位で行動していたが、組と組との間は連絡もなく、命令者もなく、ばらばらであった。言えそうなことは、彼らが戦争に向かう恐怖と、魔術的な祈りと、総勢二百五十人の数が統率者であったことだった」(『黒地の絵』,p.94-95)
兵士というものが戦争の前に代替可能であることが指摘されることはあれ、責任を担い行動を反省する主体としては決して描かれない。
このような不可視な性暴力は、決して可視的で過剰なそれよりも軽いということはない。むしろ行使者の責任を解体し、被害者を多重に襲う卑劣な暴力である。
b.代替可能な「黒人兵たち」は芳子と同型的な暴力に曝されている
「黒んぼもかわいそうだな。かわいそうだが――」(『黒地の絵』,p.150)
「黒人兵たち」の強姦は許されるものではないが、彼らが純粋な悪であるとするのは事の本質を外すことになる。彼らが匿名的で複数的な主語にならざるをえないのは、戦争、特に物量的消耗戦という大きな文脈による。
カントは道徳法則として次のように言っている。「他者をたんに手段としてのみならず、同時に目的として扱え」。物量的消耗戦においては、他者が完全に手段としてのみ現れる。もちろん、戦場においてさえも人間は自由な存在として互いを同時に目的として扱うことができる。けれども物量的であるということは、他者を数に還元し、さらに、消耗戦はつねにさきに消耗される者と消耗によって生きる者とが弁別されるからだ。戦闘被害が、守られるべき白人による本隊から切り離された黒人兵たちに投げやられるのである。
このとき私たちはさきの『フェミニズム入門』からの引用を次のように読み替えることができることに気がつく。男女の別は白人/黒人であり、性暴力は戦争暴力にあたる。
「戦争暴力は多くの場合身体の次元にとどまらない。それは戦闘被害者に屈辱感と自己喪失感を与えて、彼らの心的隷従化をも要求する。それは、黒人の魂と黒人の価値体系を破壊し、白人の優位性を黒人に承認させる、支配の権力として発動する。」いま、誤解を恐れずに言いたい。「黒人兵たち」は芳子である!
以上から、黒人兵たちと芳子との同型性、同一性を示すことが出来た。
c.女性器の刺青というメディア
黒い鞣革の地肌に、女陰の形の絵は桃色がかって浮きあがり、生き物のように動いた。(『黒地の絵』,p.108)
まさに身体を皮膚として捉える場合に生じるのは、頭部を位階秩序の頂点におく人間の形象の解体なのである。バタイユが口に暴力の兆しを認めたとするならば、レリスにとって、肉体の孔はほとんど傷に等しい。この場合の傷とは、外部と内部の交流を可能にする開口部のことである。(小森陽一・富山太佳夫・沼野充義・兵藤裕己・松浦寿輝, 『岩波講座文学11身体と性』, 2002,p.225)
黒人兵の女陰の刺青は、接近不可能な純粋な加害者としての黒人兵たち、および、純粋な被害者としての芳子、両者への理解可能性を留吉にひらくメディアとして機能しうる。
では、留吉による刺青の破壊は何を意味するのか。刺青を頼って黒人兵たちを探すふるまいは一定の距離の下留吉に、芳子との関係、黒人兵たちとの関係を維持させる。今村仁司は『貨幣とは何だろうか』の中で「距離化」という概念を次のように説明している。
ここでいう距離化(Distanzierung)とは、「遠ざけ」と「離れを防ぐ」という相反する作用を同時に意味している。人間の関係づけは、距離をつくりだし、同時にその距離を一定の幅のなかに収拾することなのである。(今村,1994,p.48)
「距離化」を為していたメディアとしての刺青を破壊してしまうとき、留吉に両者との関係可能性を閉ざしてしまう。
ここで私たちの関心は、黒人兵たちは戦争暴力から回復しうるのか、留吉は彼らを許すことができるのか、そして、二つの条件を満たして、留吉と黒人兵たちはもう一度(「初めて」であるが)関係を取り結ぶことができるのか、という点に向けられている。
まず、戦争暴力からの回復とは、能動的主体的な固有で特異な個人として自立し、自由な権利を獲得することである。戦争暴力が匿名化、手段化、客体化であったのだからそれへの抵抗は「再主体化」ということになるだろう。これは、レイプというおぞましい手段によってであるが、一応満たされている。皮肉にも留吉が、まずはレイプ加害者として、黒人兵たちの主体性を承認する。刺青をした特異な個人として、留吉は彼らを認めざるを得ない。
次いで、留吉は黒人兵たちを許すことができるか。関係を取り結べるか。その端緒は開かれているのではないか。刺青のメディアは留吉にとって、不思議なことに、芳子へと到るための唯一の手がかりとして現れている。今や留吉は、芳子との関係を、レイプ加害者に対する報復のための探索という行動によって唯一把持している。留吉は芳子に、黒人兵たち(の刺青)という媒体を経由して辛うじて繋ぎとめられている。だから黒人兵たちを許すほかないように見える。
また、積極的動機としては、黒人兵たちをレイプ加害者としての性質の下にいつまでも縛り付けておくことが、コインの裏表として、芳子をいつまでもレイプ被害者としての相におき続けることを帰結するために、彼らを許すことが芳子の回復につながるのではないかと考えられる。
以上で、黒人兵たちの回復可能性を示すことを通じて、芳子の回復可能性を示すことができたと考える。