5日から6日にかけて | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

このブログはたぶん一般的な意味での日記ではない。


ブログの性格のようなものが形成されたのは浪人時代だろうと思うが、その時期の記事には具体的経験が決定的に欠けている。

具体的な経験をつづるのではないから、一般的日記の基準から評価すればまったくつまらないものであるだろう。

それはまったく否定しない。

でも、書いている当人からすれば、このブログは読み返してなかなか面白い。

具体的経験の代わりに内面の抽象的思考経験が記録されているからだ。

それが有効であるか、希少であるか、互いに整合的であるか、といったことは私にはあまり感動をもたらさない。

私をして過去の記事を読み返すように促すのは、その示唆性である。

多くは、私の思考ではない。

「彼ら」の思考である。


*


結局、今、生々しく感じられるのは、それが何についての話であるかということだ。

わからない、暴力的な還元であるかもしれない。

けれども、私たちはただ、目の前の事象について、そのつどの角度と距離をもって、そのつどの現れとしてつかむことができるばかりである。


5日は、ラジオについて話していた。


私たちは自己自身を新しい役割として、立場として措定しようと試みるとき、それまで非意識的にこなしていたにすぎない没入的な日常生活の諸活動について、改めてその活動の対象化並びに技術的洗練を要求されることがある。


ご飯を食べる。

旨いしか言えない。

味わいを言葉だけで伝える技術があればよいと思う。


今日、表現のコストが圧倒的に下がっている。

そのことは同時に、表現のリターンが劇的に低下することを意味するのではないだろうか。

でも、経験から言えば、ささやかな表現一つで、まさにその直前まで「観光地」だった土地が、友達の住む街に変化することがある。

そのことは莫大な返礼ではないか?


6日は、大学について話していた。


キャンパスの広さという下部構造がどれほど生活や文化を規定するのかを突きつける厳然たる事実に愕然とした。

方法の限界と可能性を見たように思う。