「何ものであるかという性質から解放された生」について | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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私は、芳子は人間の尊厳を深く損なわれ動物的な水準に転落した「かわいそう」な人であるという一方的で差別的な規定をしたいというのだろうか。

否、法的で政治的な、言語媒介的、等価論理的な生が人間的生のすべてではないのだと言いたいのだ。ゾーエーは豊かである。

ビオスがより優れた生としてゾーエーが貶められているのはなぜか。

古代ギリシアにおけるポリス(政治空間)とオイコス(ポリスの外部、家庭)との区別がそこに反映されているからだ。

古代ギリシアでは、今日からすれば信じがたいことであるが、オイコスに属する(身体を用いる)労働はすべて隷属的であるとされ貶下されていた。

つまり、「彼女はゾーエーの水準の生を生きている」といえば、確かにギリシア的な文脈では差別的な表現であるとされるだろう。


けれども、それを逆手にとって、新しい意味合いをその言葉に付与させることが出来ないか。

先行する試みとして、「クィア」がある。

クィアはもともと英語圏でセクシャル・マイノリティを指す「へんてこな奴」といった意味であり、差別的な表現であった。

その否定的規定を奪い取り投げ返すことで新しい意味をそこに付与する。「そうだ、クィアだ!クィアで何が悪い?」
そうだ、ゾーエーだ、ゾーエーで何が悪い?

ビオスとは法規範の生、言語的媒介による等価論理の生であった。

だが、それが生のすべてではない。

例えば、私は、財貨や権力だけが生の目標であり、それを獲得するためには友人を騙し、出し抜き、裏切り、誰を信用することも出来ず競争を勝ち上がろうと考える人間のことを「貧しい」と思う。

たくさん財貨や力を溜め込むこと、死蔵することが豊かなのではなくて、人にたくさん贈与することができることを豊かであるというのではないだろうか。

ビオス的な価値は確かに、明晰で判明だ。

それは数量的に勘定することの出来る価値の世界である。

それに比べれば、ビオス的価値基準からは、ゾーエーは「貧しい」ように見えるかもしれない。

ビオスにおいて人は、金や力や名声によって、自分のほうが相手よりも強いこと、少しでも上に位置づけられるよう相手に認めさせようと争う。

それは人間の承認欲求に従って発生する争いであるから、程度的に本質的であるだろう。

だが、自分が何ものであるかということを高らかに宣言し、相手を打ち負かしそれを認めさせることがそれほど重要であるとは思えない。

私たちは社会に流通する「肩書き」や「資格」の獲得のために必死になるが余り、反って生活を失ってしまう例を身の回りに散見することができる。


リー・エドルマンは「クィア」とは「永続的に何者かになっていく現場(a site of permanent becoming)」であるとしている。

何ものであるかということを、いわば凍結し保存しようとする場がポリスであるのだ。

ゾーエーの何が豊かであるのかといえば、人間の性質をそうして凍結し捕捉しようとする試みを絶えず逃れ去っていくものがそこにあるからだ。
以上で、「自分が何ものであるかという性質から解放された生を示し肯定すること」ができたとする。