教養がマッピングであるとすれば必要なのは、いま自分は何をすべきかということを考えられるようになることではないでしょうか。
何をすべきであるかということがわかりさえすれば、どのようにすべきかという個別の問題に入っていくことが出来るでしょう。
それぞれの問題を解決するために必要な、課題を達成するために必要な能力を養うほうに向うでしょう。
いま、この局面において問題は何であるか。
自分を取り巻く時代状況がありますね。
自分を含める世界はどのように動いているか。
自分が何かをしたとして、それをただ自己評価のうちに完結することができるなら苦しくありません。
私たちは自己評価を信じきることが出来ない。
自己の信仰を確証できない。
それは外生的なものです。
行動の水準において示されるほかないものです。
他者による承認が不可欠です。
世界とは私たちを取り巻く意味の秩序です。
私たちの目の前にあってものはたんにそれそのものとしてではなく何かしらのものとして何ものかとして、付与された意味として現れます。
その、何ものかという意味を付与するのは私を含む人々です。
あらゆる人が意味づけを行っていく、争っていく。
私たちは意味づけの闘争のなかにいます。
そのとき、真に意味づけを行うべき立場という抽象が仮想されます。
そこから、それによって、それを経由して、意味が付与されるべき「それ」。
第三者の審級。共同幻想?
その超越的な原規範と対抗する概念が偶有性であると思います。
「別様でもありえたかもしれない」という可能性を僕は愛しています。
現在は、その事後の視点(超越的審級)からみて、すでに動かない必然たる「過去」として回収された未来を変えうる潜勢力として、ある。
賭けは負けうるから賭けなんです。
可能性は可誤性です。
他なる可能性、読み替えのことを転回=革命といいます。
今僕は、斜陽の日本に生きています。
大学生です。
その好悪如何に関わらず社会の中でまともなふるまいをとれるようになって生き延びていく力を身につけなければならないという切迫に苦しんでいます。
自立ということを考えています。
彼女が欲しいです。
社会と折り合いをつけなくてなりません。
これらのことを考えています。
停滞と閉塞の日本はすごく息苦しいです。
生きづらいです。
困難な社会矛盾が百出しています。
けれども、その大本はひとつであるのではないかと思っています。
それはまだその社会が、不可能な「成長」の前提を中心に置いて編み上げられていることではないか。
競争と成長と、それらをミッションとしてDNAに刻み付けられた企業が最も配慮されるべき優先事項とされている。
社会福祉もとうに崩れ去った日本型経営、新卒一括採用、年功序列制、定年退職、終身雇用をもつとされる企業に投げられている。
成功とはなんでしょうか。
莫大な財貨を蓄え、高い地位に立ち、強力な威信を身につけることでしょうか。
僕はそうではないと思います。
成功というのは、音楽や映画や芸術や小説や思想について深い造詣をもち、質素ではあっても清潔で気分のよい衣服をまとい落ち着いた部屋に住み、友だちのたくさんいることです。
また、それらを十分に楽しむことの出来る豊かな時間をもっていることです。
豊かさとは、たくさん持っていることではなく、たくさん贈ることです。
所得の増大だけを配慮する働き方は、人間の生そのものをスポイルしてしまうと思います。
私たちは私財を肥やすための私的で幼稚な労働時間を縮減して、余った時間を用いて公共の事物について、天下国家について論じる習慣を持つべきです。
彼が何ものであるかということは営業成績や肩書きや納税額やブランド物によってではなく、どんな「他なる可能性」を示すことが出来るか、その想像力の豊かさによって決定されるのではないでしょうか。
オイコノミアは、家のあるべき秩序とその経営のことです。
あるべき必要(奴隷)労働と親子関係と婚姻関係の経営です。
大学生活のうちに置き直せば、就活と恋愛と家族のことです。